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グレコリー・ペック 第68号

つい最近、BSテレビでアメリカの男優であるグレコリーペック(2003年没)の半生を描いたドキュメンタリー番組がありました。 私は昔から洋画が好きなこともあり、興味を持ってその番組を観ました。 私は高校時代から洋画が好きで洋画専門誌「スクリーン」も愛読していた程です。

さて、私が鮮明に憶えている最初の映画は「ボニーとクライド」(邦題)です。 1930年代前半、アメリカ中西部で連続して起こった銀行強盗のカップル(ボニー・パーカー・・・男性、クライド・バロウ・・・女性)を描いた実話作品でした。 この時代のアメリカは禁酒法と世界恐慌の中で苦しい時代で、特に、貧しい人達には困窮そのものでした。ボニーとクライドは数多くの銀行を襲い、多くの人達を殺害しました。最期は多くの警官隊に待ち伏せされ、実録では150発を超える銃撃を受け、80発余りが命中し死亡したと言われています。 最期のシーンはこれでもかこれでもかという警官隊の銃弾シーンで、劇場内は一言も声が出ない衝撃でした。ボニーとクライドに対しては、両親や世間は必ずしも否定的ではなく同情的な社会観も一部であり、逃亡中にかくまう人達も多かったのも事実でした。 この主人公2人はある意味で、社会や世相からはじき飛ばされた適応の出来ない犠牲者でもあり、それでいてアメリカの犯罪史上に残る凶悪犯でもありました。 彼らは24,5歳で亡くなりましたが、当時、高校生だった私には大きなショックでした。 「凄いなあ、アメリカって国は?! 自由で豊かな国ではあるけれど、その半面、ルールを無視すると実力行使を辞さない徹底した国だ!」との印象を強く持ちました。 丁度、その頃からでしょうか、アメリカに渡りたいと思ったものでした。 今ならお金があれば何とかなるようですが、私の頃は実現困難な時代でした。 それでもアメリカ大使館に手紙を書いた憶えがあります。 「どこか西部の田舎の牧場で働きたいので、紹介しては貰えないだろうか?・・・」といったものでした。実兄の友人がアメリカの牧場で働いたこともあったので、尚更、憧れたものでした・・・(実現はしませんでしたが)

このように私は洋画を通じて外国に具体的興味を持ち始めましたが、反面、興味を持たない俳優の作品は観ないという側面もありました。今もリチャード・ウィドマークという知る人のみ知る悪役中心だった俳優が好きで、名作とか有名作には知名度ほど興味はありません。隠れた名作のようなものが好きです。 私観ですが、悪役ほど善良な役も演じられると思っています。悪役というものは顔自体が悪役に似つかわしく、演技にも人一倍考え苦労もするからでしょうか・・・ このウィドマークも例外ではなく、善良な役柄を見事に演じている作品もあります。 この俳優には漫画家の手塚治虫氏も注目していたようで、憎まれ役のキャラクター(スカンク草井)のモデルにしたと言われています。 やはり、好きな人は好きなのでしょうか?・・・(少し自画自賛の私です) ちなみに邦画では唯一、市川雷蔵のファンです。(この話はチャンスがあれば書きます)

さて話を戻しますが、グレコリーペックのことは「白鯨」や「ナバロンの要塞」、そして「ローマの休日」程度くらいしか知りませんが、ローマの休日での新聞記者役は当たり役でした。 その映画でのラストに近い、王女様(オードリー・ペップバーン主演)が各社報道陣からの質問に答えるシーンが、そのドキュメンタリー番組でのグレコリー・ペックの応答と実に似ているような気がして私は興味を持ちました。 平凡な答えだが、その中に深い真実があるということです。 誰もが本当は願ってやまない家族愛、人間愛というものがその人の人生形成に大きな影響があるんだなとその番組を通じ感動を新たにしました。 (この辺りの話は私の人生観かも知れませんが・・・)

その感動は2つありました。 それらはアメリカやイギリスなどで行った数多くの講演会での最後に行われた、聴衆からの質問にペック自身が直接に答える時間でした。 各講演会で発せられる質問は多岐に渡り、作品は勿論のこと、人生観、政治観、社会観、家族関係など含んでいました。 私はこれらの質問の中で偶然目にした2つのシーンが忘れられなくなりました。 これがグレコリー・ペックという俳優の普段の姿なのだと。

一つ目はある中年男性が質問したのですが、その人は若い頃にベトナム戦争に砲兵として参戦し無事に帰還した人でした。その質問の内容はその戦争の中でかけがえのない友人を得たというような話でした。しかし、その話の途中で突然、グレコリーペックはこう発しました。(正確には意訳ですが) 「途中で失礼だが、君はひよっとして××という名前じゃないかい?」・・・ 当の質問者である本人は大変に驚きました・・・「はい、そうですが・・・」 「後で楽屋に寄ってくれるかい? 息子の○○も元気でやっているよ・・・」 「聴衆の皆さん、彼は息子の○○の戦友だったですよ・・・」

世界的に有名な俳優が次男の戦友の名前をちゃんと憶えているだけでなく、それを感じ取れる感性を持っているのです。 これだけでペックがどれだけ家族を愛していたかが分ります。 ちなみに、ペック自身は戦争反対論者で、息子さんはどうも志願兵だったようです。 しかし、そんな息子を父親としては尊敬していたようです。

二つ目は、こんな質問です。 「貴方は人生の最後にどう呼ばれたいですか?・・・」 ・・・・・ ペックはこう応えました。 「私は俳優としてよりも、妻が自分と一緒になる前よりも幸せであるか、子供達から愛される父親であるかということが一番なのです」 聴衆からは素晴らしい拍手が起きました・・・ ペックには5人の子供達がいましたが長男を亡くしており、そのことが一層、彼の心には子供達への想いになっているのではないでしょうか?・・・

日本人である私達にはこんな台詞はなかなか思っていても出せません。 国民的に照れ屋だという側面もあるでしょうが、私も含め、どうも褒めることが苦手です。幼少から良いことよりも悪いことを制される教育や家庭環境だったからでしょうか?・・・ しかし、素直な気持ちにならないと言葉も素直にはなりません。素直になればペックと同じようになれると思います。 日本人が照れないでこんな台詞が言えるようになれば、日本は随分と変わると思います。

誰も不幸になりたいと思って生まれて来た人はいません。 幸せな人生でありたいと願っていると思います。 才能や能力、体力、或いは善悪や本能、環境や生まれながらのハンディキャップなど、実に様々な違いがこの世にはあります。 しかしながら,生まれた時から誰も不幸になりたいとは願ってはいないのです。 本当は心底から幸せな人生でありたいと願っていると思います。 私はっそう信じていますので、自分一人の力など知れてはいますが、それでも小さな会社の経営者としてそんな理想に一歩でも近づける会社にしたいと心から願っています。

最後になりますが、今は亡き父や母に心から感謝します。 父親には今でもなかなか素直にはなれませんが、それでも感謝します。 もう一度、父と母の元に生まれたなら今度こそ素直な子供として育ちたい。 甘えられなかった分を取り戻したいと思っています。

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