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一生忘れ得ぬ三人の友 第205号

私には生涯忘れられない三人の友がいます。 このうち、二人は消息が途絶えてしまい、どこかで生きてはいるでしょうが、消息はわかりません。 残りのもう一人は、残念ながら2年前に亡くなりました。 先日、何かの折にこれらの友を思い出してしまい、無性に何か記録に書き残しておきたくなりました。

人は生きていれば、いつか必ず別れがもあります。 寂しいですが、その寂しさや懐かしさを乗り越えて人は生きていかねばなりません。 その三人の友のことをこれから書きます。 悪いね、記録に残すようなことをして・・・・でも、友達だから許して下さい。

このコラムは7月31日に書いています。 奇しくも亡くなった友の命日でもあります。 退屈してるだろか? それとも楽しんでるだろうか?・・・でも、まだ俺は呼ぶなよ。 やらないといけないことがまだまだあるからな・・・

その1.I.F君 小学校低学年の時の友達です。 もう半世紀以上も前のことです・・・ 彼の家は、あるカトリック系女子高の敷地内にあり、お父さんがその学校の用務員さんをしていました。 優しいお父さんで、お母さんは体が弱いのか、よく布団に横になっていた姿を思い出します。 兄弟が多く、彼は長男だったので、幼い兄弟をよく背中におんぶ紐で背負っていました・・・ その光景が他の友達とは違っていて、とても何か可哀想で私の脳裏に白黒写真で残っています。 その当時でもそんな子供は殆ど見かけませんでした。 頭は丸刈りでした・・・

あの頃はみんなが貧しくて、着るものは兄弟のお下がりで、袖のあたりがテカテカ光っていて、校庭でも裸足で遊んだりしていました・・・ 新品の運動靴でも履いているものなら皆が羨ましそうにしていたものです。 そんな時代でしたので、余計に彼のことはよく憶えています。

彼は大人になったら、きっと人の為や世の為に役立つ人間になっているだろうと思います。 宗教もキリスト教だったかも知れません。 何故なら、その女子高校は田舎では珍しいミッション系の高校だったからです。 正門へ入るときと出る時には、何か前かがみで十字を切っていたか、手を合わせていたように思います。

それ以外の遊んだりした思い出は消えていて、兄弟の面倒をいつもみていた姿をよく思い出します。 どこか寂しげで、どこか哀れで、人とは違っていました。

今頃、どこで何をしているのかなあ・・・ あの頃は誰でも靴は、今でいう上履きのようなちゃちな靴でした・・・ 学校にはプールはありましたが、ビニール張りの25メートルプールでした。 こんなもの今では見つけられないと思います。 小学校の校舎は、木造二階建てで、体育の用具室も木造だったのを憶えています。

私達の頃は戦争が終わって10年ちょっとしか経っていなかったので、子供が多く、6学年で3000名を超えていました。教室も足りず、体育館の中も区切られて教室になっていました。 一学年で18組もありました。一組あたり50名以上が普通でした。 それに給食が始まった頃で、コッペパンとおかずと脱脂粉乳という、生暖かい牛乳もどきの黒い蹉跌のようなザラザラしたカスが残っていた飲み物でした。 脱脂粉乳という飲み物でしたが、中にはそれが飲めない子供もいたりしました。

私の家は子供4人と両親の計6人家族でしたが、彼の家はもう少し多かったように記憶しています。 どこの家も貧しかったので、食べ物のことはよく思い出します。 すき焼きの夕食など滅多になく、子供達は早く食べようと競争でした。 具材を食べた後の汁をご飯の上にかけてよく食べました。 その甘い肉汁の味が滲みたご飯を懐かしく思い出します。

卵は貴重品で高価だったので、すき焼きなのになかったように思います。 今のように2個なんてあり得ませんでした。 バナナも遠足のときだけ、ゆで卵もそうだったし、巻き寿司も遠足の定番、卵焼きもそうでした・・・ もっと貧しい家の子はそんな上等の弁当ではありませんでした・・・ それでも、いじめたり、いじめられたりはあまりなかったような良き時代でした・・・ 皆が貧しかった時代でした。

ああ、それから彼は時々学ランを着ていました。 これも生活が大変だったからだと思います。 その頃は服装は自由で学ランの子供は滅多にいませんでした・・・

朝はよく彼の家に寄って、一緒に小学校へ行きました。 20,30分かかったと思います。 その学校こそ、人生の中で永遠に忘れ得ない一年生の時に出会った津田先生のいた学校です。 その学校こそ、鹿児島市立中郡小学校と言います。 あれから55年ほど経ちました・・・ 桜島は校庭から、まだ見えるでしょうか?・・・ この小学校は創立140年という凄い小学校なのです。 校歌は今でも歌えます。 ちなみに歌手の長渕剛さんもここの小学校を卒業しています。 私より確か6歳下だと思います。

その2.S.N君 彼は大学時代の悪友です。 言わば、戦友のような青春真っ只中の友達です。 東京で出会いました。

私に言わせれば、こんなおかしな、堂々とした変わり者に会ったことが、これまた不思議な出会いです・・・ 彼と私は、中村雅俊の「俺たちの旅」に出てくる友達のように非常識で、図々しくて、結局は思い通りにいかない人生の同じページを生きていたように思います。

彼は代々続く医者の息子で、お兄さんも医者・・・・なのに、どこかで親父に反発していて、家にあまり寄り付かない、強そうで強くない、そんな奴でした。 手先が器用で、車の運転も好きで、自分でも車のデザイン画を書いていました。 オートバイにも乗っていました。

彼とは大学の近くまで行って、ビリヤード場へ直行なんて、しょっちゅうでした。 彼の実家は代々の医者の家系ですが、昔は典医とか言っていました。 実際に、彼の実家に行ったことがありますが、ばあやが居て、離れにお兄さんと住んでいましたが、その造りが少々古くて、家の下に水が張ってて、そこに鯉が泳いでいるのには驚きました。 「何だ、この家は?!」といった感じでした・・・ 親族会議とやらを帝国ホテルで開いたりする家でした・・・

こんな育ちの良いはずのボンボンが、薩摩の田舎侍の馬鹿息子と馬が合ったのが妙な出会いの始まりでした。 私達は大学にも行きましたが、大学の近くで横へはずれ、ビリヤード場へよく行きました。 そこで出前を頼んだして一日遊んでいたりしていました・・・

たまに大学へ行くと、親から貰ったダブダブのスーツを着た高橋君という、若いのに額がテカテカ光っている 友達にこう言われたことがあります。 「おまえら、世の中を舐めてるなよ!」と。 まあ、確かに嫌だったら大学を辞めたらいいし、他の道へ進んでもいい訳です。

私も友達も真剣に大学を辞めようと、試験をボイコットしたことがあり、それで留年もしました。 しかし、親にも怒られましたし、彼のお母さんが私のアパートまで来て泣かれた時には申し訳ない気持ちにもなりました。 私にも母親がいましたので、そのことを思うと、結局は私も友達も大学に戻ることにしました。

この友達はひと夏、私の4畳半のアパートに転がり込んで来て、住みつき、私が稼いで来たバイト代を当てに1ケ月以上もいたことがあります。 ある日、近くの銭湯へ出かけていたら、そいつが大きな声で呼ぶのが聞こえました。 その声の方を見ると、真っ裸で私を呼んで彼が立っていました・・・ 裸で、悪いけど風呂代を払ってだって・・・ 何でここの風呂にいるのが分かったのか驚きました。

そしたら、金がないので番台の人に言って、多分、友達が中に居るので銭湯代は後で払うので中に入れて下さいと頼み込んできたと話していました。 もし、居なかったらどうしたんだ?と聞いたら、居たんだからいいじゃないかというような奴なんです。

春休みで日本中がエネルギー危機でトイレットペーパーも売り切れた頃、私が九州の実家に帰っていたら、突然、警察から電話がかかって来たことがあります。 誰々さんてご存知ですか?といきなり聞かれて、ハイ、友達ですがと答えたら、何とここに友達が来ていますので迎えに来て下さいと言われ、驚くやらびっくりするやらで迎えに行ったら、警察官と談笑しながらお茶をすすって いたのには言葉を失いました。 そして会うなり、「よう!」だってさ。 その時、横にもう一人いたので顔を見たら、何と彼のお兄さんも一緒でした・・・ 九州の端っこには来たことがないので、兄も連れて来たと普通の声でそっけなく言う奴でした・・・

勿論、我の実家に泊めましたが、こういうときは抜け目がなく、私の母親を前に、いつもお世話になっていますと挨拶と手土産を渡された母親は、「今どきいない、いい背年だね?!」だってさ。 その友達は埼玉から東名高速を通り九州の端まで、それも高速道路のガソリンスタンドも空いていないのに、3度ほど高速を降りて、開いているガソリンスタンドを探して我が家まで来たそうです。 なんという大胆な奴なんです。コイツは。

しかし、彼は妙に女性にモテました・・・ 普通の男にはない図々しさや大胆さを持っていたからでしょうか?

私が歌舞伎町のビルで24時間警備の警備会社のバイトをしている時に、彼は車の2種免許を取得して、何と大学生なのに、東京の有名なタクシー会社で運転手のバイトを始めたのには驚きました。 しかも、夜中にフラッと私がバイトしている警備室の正面にタクシーを停めて、警備の隊長さんとお茶を飲みながら世間話をして休憩しているんです・・・ そこでも会ったら「よう!」です。

その隊長曰く、私の友達には面白いのがいるなあだって・・・ すっかり気に入られていました。 面白かったのは遠くへお客を乗せて、帰り方が分からなくなって電話がかかって来たことです。 「どうやって帰ったらいいんだろうか?」と。 この友達にも永い間、会っていません・・・

その3 M.Hさん 最後が、本家と元祖と互いに言い合っていた、2年前に亡くなった友達です。 彼とは週に一回程度は必ず会って、経営の話や、世間話やら、お金の話、名経営者の話、互いの価値観の話までと、時を忘れるまでよく話していました・・・ 少し理屈っぽい所がある友達でしたが、亡くなってからはそんな心から本音で話せる友達がいなくなって、 暫くは一人で懐かしい場所でお茶を飲んだりしていましたが、やはり、一人では時間が持たなくなり止めました。 私には鎧を脱いで本音で語れる経営者の友がいなくなりました。 心地よい時間も消えました・・・

彼とは名字の音読みが同じで、その一字が本と元だったので、そう互いに言い合っていました。

彼にはいろいろと教えられました・・・ 経営者になってから、あんなに本音で話せた友達はいません。 突然の悲報にも、全く実感がなく信じられませんでした・・・ その何日か前に会っていたのですから・・・

お通夜でも告別式でも同じ気持ちでした・・・ 涙が出ないのです、信じられなくて。 何かの間違い?・・ 顔をみても色が白いだけで、本当か?といった感じでした。

しかし、時が過ぎて行くに従い、悲しみというか、もう二度を話ができない寂しさが込み上げてきて、どこで 馬鹿話をしたらいいのか、孤独をもっと感じます。

人は死んだら終わり・・・・ 思い出だけでは無理です・・・ 生きていてこその人生です。

彼には今の会社を立ち上げる時に小さな集まりを開いた時に来て貰いました。 そこにはお酒もありましたが、彼は全く飲めないので、本来なら来て貰えないかも知れなかったのですが、 その厚意には今も感謝しています。

彼に私は、前の会社おやっていた時から、こう言われ続けていました。 「お前は飼い犬や・・・」と・・・ (きつい言葉ですが、彼は言葉はきついけれど意味する言葉には本音があります)。 普通なら失礼な言い方なのですが、妙に心に沁みる言葉だったのです。

「俺は違う。俺は自分でやってるから違う」と反論もありましたが、他人のお金が入っていたので、そうかなあと思い始めました・・・ この言葉は今でも耳に残っています。 そんなこんなで、そこの社長を自ら退任させて貰い、自分一人で立ち上げたのが今の会社なのです。 後でいろいろ話したら、今度こそ自分の力やなと言われ、素直に彼と裸の話が出来るようになりました。 文字とおりゼロからの再出発でした。

あれから18年が経ちました・・・ 私は彼よりも永く生きています・・・ 彼だってもっと永く生きたかった筈です・・・ 経営者にも幸せ一杯で満願成就して亡くなる人もいるでしょうし、そうではなく志半ばで亡くなる人も多いと思います。 それを考えても仕方がないのですが、せめて自分の背負っている重荷だけは下ろしておきたいのは本音です。 

私はこうして友達に恵まれ、好きなような人生を歩いてはいますが、未だゴールが決められない状況です。 特に人を動かし、思うように陣容を整えることは本当に難しいです。 つくづく人やなあと思います・・・ 作るしかないのですが、なかなか理解してくれないし、伝えることすら難しいなとさえ思います。 しかし、これをやり続けることしかありません。 命が果てるまで自分の創り続けるゴールを目指して、一生懸命に生きようと自分に誓っています。 そんな中で新たな出会いもきっと生まれます。

少し長文になりましたが、友達は実にいいものです・・・ 本当にそう思います。 まだ、これからも良い人との気さくな出会いもあるでしょうから、そんな人に出会えるように生きていきます。 日々これ成長なり。

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