2010年冬季オリンピックがカナダのバンクーバーで開かれ、まもなく終了します。オリンピックといえば、古代ギリシャで戦争を中断してまで競技を競い合ったことが発端であり、一方でアマチュア精神を尊ぶ世界のスポーツ祭典の最高位に位置するものだと云われています。 そんな4年に1回の祭典をニュース等で観るにつけ、何かしら個人的に思うことがあり、思い切って書いてみました。
オリンピックはイデオロギーや国家体制に関係なく、アマチュア精神を重んじ、世界平和とスポーツ振興を願う精神が根幹とは言いながら、その祭典も時代と共に変貌を遂げ、開催される種目や用具、競技方法、あるいは各国の支援も随分と様変わりして来ました。 特に、金・銀・銅といったメダルへの各国の反応や取得意欲への取組みには、その国の国威発揚や思惑も絡み、最新テクノロジーも惜しげもなく使われており、以前とは随分と違って来たなと思います。
この変化には参加国の思想や国情が色濃く反映されていますが、一概にはその思いも否定できるものではないとは私は思いますが、どうも最近は特定国にメダルが集中してしまう傾向には、いささかうんざり気味で、どこか異議を唱えたくもなります。 そこには民族的な優劣というより、選手育成強化という形を利用した意図された国レベルの政治色が反映しているように思われるからです。
元々、オリンピックには皆さんがよく言う、こんなセリフがありました。 「参加することに意義がある」と・・・ しかし、参加した以上、次はメダルを取りたいという気持ちは選手には勿論、国家にもあって当然だと思います。 それを真っ向から否定できるものでもありません。 それでもです。特定国にメダルが集中する傾向を感じたり、観ていたりすると、感動が沸いて来ないばかりか、少々白けたりして来るのは何故なのでしょうか?・・・
いつの大会だったかは忘れましたが、夏季オリンピックの水泳絵競技で、初めて参加したどこか小さな国の選手だったと記憶しますが、その選手は明らかにオリンピック水準ではないのですが、他の選手達に大きく水をあけられてしまい、ゴールする時には大差がついてしまいました・・・ それでも懸命に最後まで泳ぐその姿に会場ばかりか世界中が大きな声援が送りました。その上、選手本人が明るい表情で手を振りながら笑っていたシーンを今でもはっきりと憶えています。 この時、こんなのがいいな、これがオリンピックだなと思いました・・・
記録は確かに大事なことです。 人は目標を持ち、具体的に努力をし、その目標を達成することで成長するからです。 記録よりもそのプロセスに成長があります。 人はそのプロセスに深い感銘を憶えますし、そこに言葉や国といった壁を超えて共有する熱い気持ちを感じるのです。 これは国境に関係なく誰にでも同じ感情ではないでしょうか?・・・ もっと言えば、常日頃の忙しい生活や仕事の中で忘れている、人間本来の姿が隠されているように思います。
日頃から体を鍛錬し、人一倍我慢もし、ひたすらトレーニングに明け暮れている選手から観れば、甘いセンチメンタルな話なのかも知れません。 国力や技術水準や経済力が根底にあるアマチュアの祭典には、どこかしら観て楽しむスポーツであっても、心打たれるシーンが少なくなって来ていることも事実です。完成度の高いスポーツの場がオリンピックなのかも知れません。
オリンピックは感動があってこそオリンピックです。 正に、記録より記憶です。 いつどこでオリンピックがあって、どの種目で誰がメダルを取ったかなど殆ど憶えていません。が、感動を与えてくれた選手のことは時間が経っても憶えているからです。 日本のテレビや新聞では選手の前評判や期待、或いはメダルのことを言い過ぎだとも思います。
今や、地球には様々な問題が山積みです。 正に地球規模で人類の平和や環境や子供達の将来のことを考えなければならない時代に突入しているのではないでしょうか?・・・ 地球上の人類の人口が60億の今、一方ではオリンピックのような平和の祭典が行われ、誘致合戦も各国の思惑もからみロビー活動が活発になっています。 しかし、地球の一方では戦争も続いており、テロという人の命と引換えの戦術も拡大しています。
人間は余りにも複雑になり過ぎました・・・ もっとシンプルであってもいいと思います。 結局、根源は人の心次第ということになります。 心を持っていない人間などいません。 オリンピックはとても素晴らしい人間の英知です。 そのオリンピックを生かすも殺すも我々自身次第です。 今日もテレビや新聞で放映されています・・・ オリンピックがもっと参加国が増え、そして小さなドラマが起こるような、そんな場であって欲しいと願います。 決して、先進諸国の既得権ではないような、そんなオリンピックを期待します。 その役割を日本が果たしたらもっと良いと思います。
Comments