年末年始休暇 第292号
- 2026年1月1日
- 読了時間: 7分
更新日:1月19日
新年を迎えて最初に想うことは、まずは旧年中への感謝の気持ちとこれから始ま
る新年が良き年でありますようにと気持ちを揃えることです。例え旧年中が良く
なかったとしても、これ位で済んで良かったと思えるように心掛けています。
なかなかそこまでの境地に達してはいませんが、煩悩もあれば欲もある普通の私
はそれでも極力、お願いよりも感謝するように努めています。この気持ちは若い
頃には殆どなかったのですが、加齢と共に増しているように自分で感じます。
年を重ねるにつれ、そういった気持ちになっていくようです。
そんな私が勤め人生活から独立する際にこだわった一つの例が、年末年始休暇だ
ったのです。当社では創業時から12月29日を仕事納めとし、翌年1月5日を
仕事始めとしたことです。これには私自身の経験と想いが反映されており、一般
的な年末年始休暇よりも一日遅く始まるようにしたのです。何故かと言うと、私
の若い頃の実体験からなのですが、今の時代はスピード化や多様化が進んでいる
ので、私の経験がそこに反映されているとは多くの人が知らないだろうと思うか
らです。
私の社会人生活は東京で始まりました。それも年上の人達とある事業を立ち上げ
たのです。しかし、第一次オイルショックが起こり、世間は一気に緊縮化の動き
へ変り、私達の事業に大きな影響が出始めてニーズが伸びず、1年後には仲間が
一人去り、二人去りと・・・結局、事業を解散することになり、私は故郷の鹿児
島へ帰り、アルバイトをやりながら就職先を探すことになりました。
その結果、ポリエチレンフィルム製造会社へ就職し、その別会社の農産会社でプ
ラスチック容器を使ったエノキ茸やシメジ茸の人工栽培に携わることになったの
です。
湿度や温度、或いは日光をコントロールした工場内で50日間かけて、スーパー
で見かける姿に成長した茸は重さを計り、揃えられ、一つずつフィルムの包装紙
へ梱包して自らトラックを運転して30キロ離れた卸市場まで運搬したり、茸の
種菌を遠方まで買求めに出掛けたり、その種菌を植え付ける大量の大鋸屑(おが
くず)を集める為に、あちこちの製材所へトラックで出掛け、2,3トンの大鋸
屑を詰め込んで茸工場へ輸送する作業へ奔走したりしていました・・・
勿論、それ以外にも作業がいろいろあり、若かった私は2つあった茸工場の一つ
を任されていました・・・一緒に働いているのは地元の年配のパートさん達でし
た。私は20代前半で工場長と呼ばれている立場でした。
今にして思えば、私はどうも人とは違う生き方が多かったように思います。大学
時代のバイトもそうでしたし、仲の良い学友も免許を取り、大学生ながらタクシ
ー運転手のバイトをやっていて、周囲から私達は変わっているとよく言われてい
ました。
その後、私は縁あって大阪のIT企業へ就職しました。この時に経験したことが
年末年始休日を少しずらす理由になっているのです・・・
私は大阪へ出てからは故郷で正月を過ごすと、1月4日の大阪での仕事始めに間
に合うよう、1月3日には帰阪しておく必要がありました。その為に1月2日に
は故郷から寝台特急列車に乗らないと大阪へ戻れないのでした・・・
しかも、大阪駅には夜中の3時前に着くので、そんな早朝に普通の電車は走って
いません。この寝台特急列車は九州の西側を走る鹿児島本線の特急でしたが、東
側の日豊本線を走る寝台特急列車もあり、こちらは鹿児島本線よりも大阪駅への
到着が遅く、朝の7時前に着くのでした・・・
いずれの本線を利用しても、当時の西鹿児島駅(今の鹿児島中央駅)から大阪駅
までは10数時間はかかります。どちらの特急を利用しても正月の2日目には実
家を出発しなければならず、どこか寂しい気持ちで大阪へ向かっていたのです。
この経験から、正月はせめてもう一日永く故郷で過ごせたらという思いがあり、
関西や東京には九州からの移動者も多く、列車内にはそんな人達が結構、乗り合
わせていたのです・・・航空機はまだまだ交通機関としては主流ではなく、高嶺
の花だったのです。
このことが自分が事業を起こしたら、自社の年末年始休暇にしようと決めていた
理由なのです。当時の地方出身者であれば、こんな気持ちが分かると思います。
1月2日には故郷を後にして都会へ戻る寂しさは経験した人だけが分かる話です。
当時の正月は今とは違い、親戚や家族と久し振りに再会する場だったのです。
私が生まれ育った鹿児島では当時、関西や東京方面への集団就職列車も走ってお
り、故郷を後にして都会へ出て行く中卒や高卒者も多く、そのような列車が結構
走っていたのです。送る人も涙、旅立つ若者も涙だったのです・・・
それまで都会へ出たこともない若い人達です。私はそんな集団就職列車で都会へ
出て行く人達を観たことがあります。ホームは別れを惜しむ人達で溢れていまし
た。今のように気楽に故郷へ戻れる時代ではなかったのです。都会へ出るにはそ
れなりの強い決意が必要だったのです。西鹿児島駅でも列車が出発する前にホー
ムで壮行会が行われ、去る人も見送る人も涙の別れだったのです。
当時の集団就職列車の動画を見つけました。出発駅は当時の西鹿児島駅です。
年に1万人を超える中卒者が故郷を後にしました。是非、そんな時代を思い感じ
ながら想像して観て下さい。
you-tubeです。Bing 動画
私も東京や大阪の往復には何度もその寝台特急列車を利用しました・・・
東京から帰省する際には、片道22時間ほどかかりましたから、本当に永い時間
をかけて往復したものです。
当時、日本一の乗車時間の長かったのは日豊本線を走っていた寝台特急列車「富
士」でした・・・その富士号より少し短い時間で走ったのが寝台特急列車「はや
ぶさ」でした。どちらも向い合わせの6人席でした。夜には両側で3段ベッド2
列になるのです。
今ではもう見られない光景です。はやぶさでは懐かしい思い出があります。20
時間以上も車内に居るのですが、佐賀県の鳥栖駅では長崎方面から来る寝台特急
列車と構内の線路上で鹿児島から来た列車と連結されるのです。その為に停車時
間が少々かかるのです。その時間を使ってあるものを食べるのです・・・
これを今でも思い出すのです。
停まっている番線にある、あるうどん屋さんが実に美味かったのです。
ここの「かしわうどん」は本当に美味しかった・・・今でも思い出します。
乗客は先を争って食べる為にホームを小走りしていました。
「中央軒」といった店だったそうです。AIで調べたらレシピまでありました。
もう二度と味わえないうどんです。今の九州新幹線では勿論、食べられません。
もうそこへ行って食べる機会もありません。
鰹や昆布の出汁に甘い醤油味のスープに鶏肉が乗っていて、ネギの風味とマッチ
して飛ぶように売れていました・・・この味はいまでも忘れられません。
レシピまでネットに掲載されているので、作ってみたい気もしますが、鳥栖駅構
内で寝台特急列車が停車している間に食べる感覚とは全く別物だろうと思います。
5番、6番ホームにあったそうです。今から50年程前の懐かしい思い出です。
私は後年に起業し、そして自分の若い頃を思い出し、立ち上げた会社に遠方から
都会へ出て来て働く人もいるだろうからと年末年始休暇をずらしました。
しかし、今では交通機関の発達もあって飛行機や新幹線であっという間に往復出
来る時代です。私のような経験は遠い昔話になったかも知れませんが、今の時代
もやがて昔話になる訳で、やがて今の若い人達も同じ経験を味わうことになるか
も知れないのです・・・
私が生まれ育った故郷は今も変わらない風景があります。
それは目の前に大きな桜島が見え、噴煙を上げ、空は青く、空気は甘く、そして
人情も都会と異なり、優しい人達がいる土地です。
今はもう滅多なことでは帰ることはありませんが、両親の墓には帰るたびに寄っ
ています。
故郷は遠くになってしまいましたが、その分、心の中には強く思い出が意識づけ
られていくように感じます。
小学校も中学校も高校も残っています。街中の風景こそ変わりましたが、そこが
生まれた土地、育った土地、旅立った土地、そして懐かしい土地であることは何
も変わりません。年を重ねると懐かしさが蘇るのはどうしてなのでしょうか?
戻れないことが分かって行くからこそ、却ってそんな気持ちが増して行くように
思います。私の故郷は鹿児島県鹿児島市です。ここが故郷なのです・・・
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