先日、夏休みを頂き、近江八幡市郊外にある公共宿泊施設に家族と一泊して来ました。 その折に、織田信長の築城した安土城の天守閣とその階下の八角形の部屋を復元した「信長の館」という名所を拝観して来ました。 今月はその話をしたいと思います。
私は平敦盛の「人生50年、化転の内に較ぶれば・・・・」の辞世が好きなのですが、奇しくも織田信長が好んだ詩として有名です。 私の場合は吉川英治の「新平家物語」でその詩を知ったのが最初なのですが、若くして亡くなった敦盛の詩が妙に心に染み入って来て、それ以来いつも心の片隅に占めているようになってしまいました。 後年、信長が酒を飲んだ席で勢いがつくと、この詩を好んで舞ったと知り、非常に驚きました。きっとどこか共通する想いが信長にあったのだと思いました。 信長の波乱に満ちた生き様と、敦盛の優しいけれど源平という世の大きな流れに翻弄された一若武者の短い一生とが重なり合い、時代の隔たりがあるにも拘わらず実に不思議な想いがします。
その安土城ですが、100メートル以上の山頂に数十メートルの城を築いたのですから、今、考えてみただけでも十分に驚きに値する建造物だったと思います。 「信長の館」で観た天守閣とその直下の部屋の全ての壁や天井に金箔が張られており、当時の大名を始め多くの訪問者が度肝を抜かれたことは間違いありません。 その上、それらの階下は中央部分が吹き抜けになっており、これも他の城では見たことがない斬新な驚きがあったろうと思います。
やはり、信長は尋常な天下人ではなかったと信じます。 その兆候は、赤ん坊の時からあったようで、何人もの乳母が交代したようです。 また、成長するに従って更に狂気に近い面も多くなったようで、信長を評したり理解するには数々の「うつけ伝説」が最も適切だったのだろうと思えて来ます。 実父の葬儀での振舞いや、弟の殺害、或いは頭蓋骨に金箔を張ってそれで酒を飲んだりと、正気の沙汰ではなかった性格が浮かび上がって来ます。
当時、美濃の斉藤道三といえば泣く子も黙る「マムシの道三」として有名でしたが、道三は自分の娘である濃姫を信長に嫁がせようと、ひそかに信長の行列を盗み見ました。 その時、馬上の信長は荒縄を腰に巻き朱鞘をつけ、髪はボサボサで何かを口に頬張りながらいたそうです。それを観た道三はやはり、信長は「うつけもの」に違いないと思ったそうです。 ところが、その面会の場に現れた信長の姿を観て大いに驚くと共に、「信長はうつけものなんかではない。とんでもない人物で恐れすら感じた」と評した話は余りにも有名です。 荒縄で朱鞘だった信長が道三の前に現れた時には、烏帽子に裃姿で髪も結い、それまでとはガラッと違う姿だったからです。
やがて、濃姫を嫁に貰った信長ですが、その後に不仲だったという話は聞きませんので、夫婦仲は意外と良かったのではないかと思われます。 あれ程の狂気的なリーダーと上手く暮らせたのは、さすがに斉藤道三の娘であったからだと思ってさえしまいます。 そんな、いろいろな想いを感じながら、一つ一つを拝観していました・・・
それにしても、琵琶湖を北に高い建物が無かった当時のことを思うと、朝の日差しや沈む真っ赤な夕陽を受けて輝いていたであろう安土城は、さぞやこの世のものでないほどに美しく、地上の何物にも例えようがなかっただろうと思うのです。 しかし、その美しい、この世のものとは思えないほど眩しかった安土城はたった三年で焼失してしまったのですから、敦盛の詩の後半部分にある、「夢まぼろしのごとくなり」はただの偶然とは思えない因縁があるように思われて仕方ありません。
天才だった信長には伝説となった戦歴が多くあります。 十分の一以下といわれた軍勢で今川義元を討ち取った桶狭間の戦い、鉄砲の三段構えで武田勝頼軍を撃破した長篠の戦いなどその典型です。 舞台が大きければ大きいほど、実力を発揮したのが信長だったのではないでしょうか?・・・
これらについても考えていると、ただの戦さ上手ではなかったのは明白で、勇気もあれば、刻を観る冷静さや大胆もあり、即断しての行動力も桁外れに凄かったと思うのです。
こんな近江八幡市近辺は後々、近江商人でも有名な地となりましたが、私はあながち信長の並外れた合理性と無縁ではないと推測するのです。 つまり、形と時間を超え、商人という形で後世に引き継がれていたと思うのです。 近江商人は合理性を持っていますし、人間というものを冷静に分析出来る鋭い洞察力も持っています。 信長と近江商人にはこの二つの共通点があります。
武士と商人という見た目こそ違い、その本質は世間や社会、或いは常識や合理性が求めれていることは間違いがなく、時代は違うけれど信長のDNAのようにすら思えて来るのです。
私達の日常は何の変哲もない連続した毎日ですが、変化は確実に少しずつあります。 一挙に現れた時にこそ、その大胆で勇気ある行動こそが変革をもたらす可能性があるのだと確信します。 信長と商人という異なる分野での大きな足跡は、ただの偶然ではなかったと私は思いたいのです。 信長は鳴かぬなら殺してしまえホトトギスと詠みましたが、この言葉にも表面的で直接的な言動ではない、何か本質的で異なる意味が隠されているように思えてならないのです。
今、私は昔風に言えば商人をやっています。 そこには知恵や工夫や見識、或いは人間を観る観察力と自分の人間性など、可能性と危険性を併せ持った将来があるように思えます。 私も人として生まれ、人として死ぬからには、何か生きた証しを残したいと願うばかりですが、信長の生き様は天才と狂気という名声ばかりではなく、武士という形が変化して近江商人になったのではないかと思うのです。 何故ならば、見た目の形ではなくその本質に共通点を憶えるからです。 信長と近江商人、いずれも果てしなき夢を追いかけるものであり、そしてまた人間の生と死をわきまえた共通点があるように心が感じたよい一日でした。
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