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神様 第251号

当初、今月は別のタイトルを考えていたのですが、たまたま観ていたYouーTubeで懐かしい歌手が歌っているのを観てしまい、自分の10代後半から20代始めを思い出してしまいました。その当時の友人や東京という大都会での生活や風景などが懐かしく思い出され、年を重ねた今になって懐かしい思い出となったその頃の話をさせて貰います。


私が若い頃は日本が高度成長期へ突進し始めており、経済成長と安保、ベトナム戦争と学生運動などが混じり合って社会が騒然としていた時代でした。若者達は政治や経済、学歴と競争、自由と抑圧や閉塞感、常識と反発精神が強く、何かと闘争という騒々しい時代でもありました。その一方でノンポリという周囲から観ているだけの若者も多かったのです。


学生の激しい闘争心はヘルメットや角材、火炎瓶、そしてデモとなって学園紛争や国家権力への対抗を剥き出しにしていた時代でもありました。たびたびデモや集会が行なわれ、機動隊が出動しては学生や若者を排除したり、学生が築いたバリケードを壊したり、学生を追いかけて掴まえたりする姿があちこちで見られました・・・

本来は学びの場である大学にも激を飛ばす大きな看板や白ヘルメットとタオルで顔を覆った学生の姿が見られ、今となってはその風景すら記憶のワンシーンとなっています・・・

今の若者が知らない、昭和の時代でした・・・


そんな時代に、その神様は現れたのです。

「フォークの神様」と崇められ、神様と呼ばれるからには凄い人なんだろうと思いました。

初めて実物を観た時には、何か別世界の凄い人物なんだと興奮しました・・・

その人の生き方や考え方や話し方、或いは自分で作曲や作詞をした強いメッセージソングがあり、若者は心を奪われました。

その人の名は岡林信康さんです。

今でも歌っていますが、当時は今と違って少しばかり話すだけでした。

神様というよりは得体の知れないよく分からない人物で話す言葉が異次元に思えました。

正に普通の人ではないという様相がありました。


当時の大学生が持っていた岡林さんのイメージは神々しさというか、近寄りがたい存在感があり、正に偶像化された神様のような雰囲気を醸し出していました・・・

今風に言えば生きている神様のような存在でした・・・

曲名にも歌詞にも独特なものが多く、当時の若者の多くが崇めるというか、共鳴するものも多かったのです。例えば、「チューリップのアップリケ」、「山谷ブルース」、「私達の望むものは」、「君に捧げるラブソング」など数多くの曲を作っていますが、どれもこれも時代そのものでした・・・


私が岡林さんのコンサートに初めて行ったのは大学生の時で、故郷から上京して肉体労働が多いバイトをやっていた頃で、学友の秋田出身の友人の強い誘いがあったからです。

私自身は元々がカントリーが好きだったのですが、日本のフォークは異質で全く関心はなかったのですが、その友人が強く何度も勧めるので、一緒に田舎者同士であの有名な渋谷公会堂へ出掛けて行きました・・・

出掛ける前はどうして岡林信康さんが「フォークの神様」と言われているのかが全く分かりませんでしたが、岡林さんがステージへ出て来ると、会場全体がシーンと静まり返り神様の第一声を観客全員が固唾を呑んで待っていた感じでした・・・シーーーーンとです。


私は当時の記憶が途切れ途切れなのですが、岡林さんはキューバ革命後の現地へ渡航しようとしている話をしていました。ハッキリ言えば、反体制派で当時の高度経済成長下の日本ではなく、あのカストロや革命児チェ・ゲバラが活躍した社会主義国のキューバへ何故行くのか?と全く異次元の話に驚いてしまいました・・・


当時の大学生は安保反対、ベトナム戦争反対、団塊世代、受験戦争、超競争社会など国や国家体制への不満が一杯で何かにつけて機動隊と学生のにらみ合いや闘争が多く、若者の不満が過激な行動として色々な場面に表れていた時代でした。

赤軍派とか中核派とかベ平連とか革マル派などが出現し、大学の授業も休学や激が飛び交っていた時代です・・・

そんな時代に何しにキューバへ?・・・やろうとしていることが凄いというより、その思考が田舎者の私にはさっぱり分かりませんでした。しかし、キューバ行きは結局は実現出来しなかったようです。国交もないのにどうやって入国出来るのかと私も思っていました。


そんな時代の中で何故かは分からないけれど、意味の深そうな歌詞と曲を引っ提げて岡林信康さんは教祖的な存在だったのです。

当然、彼の歌には若者の気持ちを代弁したものが多く、多くの若者が心酔していました。

しかし、岡林さん自身は自分の中でも自分との格闘も凄かったようで、急に歌を辞め、田舎の農村へ引っ込んでしまい、農業に従事したりして世間からは遁世していました。

結構長かったと思います。1,2年間などではありません。

現実と理想とのギャップで苦しんでいたようで、自分が本当にやりたかったことと違う反応や気持ちがあってギターも弾かずに農作業に励んでいたようです。

だから、歌を歌えるようになるまで時間はかかったと思います。その頃は酒浸りにもなったようで故CWニコルさんがアイツはどれだけ飲んのだか底が知れなかったと当時のことを回想していたそうです。

悩みが大きく底深いと苦しみもその分だけ長くなり、どこかへ戻るにはそれなりの長い時間が掛かってから、何かに吹っ切れたように、押されたように、悟るようなことがあるそうです。私には分かりませんが、その時に岡林さんは自分はありのままの自分でいいんだといった気持ちになり、気持ちが楽になり、再び歌を歌い出すことが出来るようになったようです。


何故、岡林さんが「神様」と言われるのか、私には2つの理由があるように思います。

1つ目は当時、増え始めた他のフォーク歌手にはいろいろな人がいたのですが、やはりその人達とは存在感、カリスマ性が随分と違いました・・・

歌詞にも強い訴求力があり、優しい歌い方やギター一本で奏でるメロディーと混ざって口が重くてマスコミ嫌いで寡黙な人柄があったことと重なり独特な雰囲気を持っていました。


この人だけは別扱いだったように思います。

そこに居るだけで存在感というかその時代の若者の原点があるみたいでした。

私にはそう観えました・・・

2つ目は、彼の実家が教会で、お父さんが牧師だったことです。本人も大学では神学を学んでいます。お父さんはかつて農業をやっていた方だそうでアメリカ人の牧師さんに出会ってから神学校へ行き牧師になったそうです。

しかし、お父さんとはそりが合わず牧師にも疑問を抱くようになったようです。

それで家を出て東京へ出て行ったのではないでしょうか?・・・

この経緯はアメリカ映画「フットルース」の話に似ています。

都会から田舎の高校へ転校してきた男性高校生が主人公でしたが、新しい高校で知り合った友達とダンスパーティを開こうとして反対され、町の住民や牧師らを集めて議会を開き、反対派が多い中で主人公へ聖書の中に歌い踊ったと書かれてあった一文を教えてその文章を議会の中で披露し、反対派を抑え込んでダンスパーティを開けることになったのです。

その聖書の一文はその田舎で知り合ったガールフレンドが教えてくれたもので、実は牧師の娘だったのです。父親に反論したくでも出来なかった娘だったのです・・

この映画の女子高校生や主人公と岡林さんがダブっているように感じます。


さて、今、岡林さんが歌っている姿をyou-tubeで観ていると相変わらず痩せていてるのですが、当時とは明らかに違う軽妙な話をして観客を笑わす姿には、当時とは全く違った新鮮な印象を受けます。

それでも歌を聴いていると、私は昔の自分を思い出し泣きそうな気持ちになりました。

山谷ブルースを聴くと、実際に建設現場でバイトとして長靴を履いて地下で足場の機材を運んだり、ブルトーザーに押されそうになったり、泥水の中で長靴が抜けなかったり、現場のおじさんらに怒鳴られたり、バイト帰りには現場宿舎で寝泊まりするおじさん達が焼酎を飲みながらサイコロを転がし賭博をやっていた光景を思い出します・・・

「兄ちゃん、一緒にやらんかね?」といった、東北なまりの言葉で誘われました。

正に、山谷ブルースの世界でした・・・

「俺たちゃいなくなりゃ ビルも道路も出来ゃしねえ・・」の歌詞は今も心に沁みます。

その通りです・・・


日本の高度成長期にはこういった人達が大勢いて、特に東北地方からの出稼ぎ者が多かった・・・こんな人達のお陰で今の東京があるんだと思います。

世の中には矛盾が一杯あり、理想や正義感に溢れる若者は既存の仕組みに不満を爆発させました。

岡林信康さんはそんな中で作られた偶像なのかも知れません。

だからこそ、本人も随分と悩んだのだろうと思います。


それから、神様と言われた理由にもう一つあったと思います。

それは他のフォーク歌手と違っていたことです。

どこがどう違うのかと言われると、私もうまくは説明出来ないですが、まずマスコミ嫌いだった点です。

他のフォーク歌手は結構、テレビやラジオに出演したりしていましたが、岡林さんは出ないのです。何で嫌いだったのかは分かりませんが、人気者になろうとか、大いに売り出そうとか、出演料を沢山貰おうとかではなかったからです。

彼自身の生き方と基軸が合わないイベントなどには一切、参加しなかったのでしょう。

だからこそ聴衆が作った自分の偶像とのギャップが嫌で自分自身に妥協ができなかったのではないかと思います。

こうなると、自分一人の世界へ戻り、俗世間から離れた農村へ引っ込み、自分はこのままでは潰れるとか、自分は何者なんだろうとか、頭を空っぽにしたいとか、こんなことを思ったのではないでしょうか?・・・

それか全てに疲れ果てたからかも知れません。


You-tubeの中で美空ひばりさんと対談している1975年の動画がありましたが、ひばりさんは岡林さんと共通するところがあると語っています。

「9歳からずっと歌って来たので青春なんて私にはなかったし、辛いことも多かったた・・・」「二人には寂しさが共通してるわねえ」と・・・

また、「曲の詞が泣ける程いいわねえ」と・・・

その曲は「風の流れに」という演歌そのものです。

勿論、岡林さんが作詞作曲したものです。

歌詞を聞いていると何とも言えない気持ちになります。今だからこそそう思います。


面白いというか凄いというか、この二人が音楽面でもう一つ共通していることがあります。

それは譜面を読めない事です。そのyou-tubeの中で話していました。

ひばりさんは自分なりの記号や文字でいろいろ書き込んで憶えるのだそうです。

それでいながら、英語も話せないのにジャズを英語で歌っているのには驚きます。

凄い人です。

岡林さんはギターは弾きますが、譜面が読めないかどうかは分かりません。

ただ、ひばりさんに僕もですと言っていたので、助け舟かも知れません。

演歌とフォークと世界は違いますが、妙に馬が合う二人だったように思います。


さて、余り話し過ぎるとしつこくなるので控えますが、岡林信康さんの時代を含め、それ以降に数多のフォークシンガーが世に出ていますが、私には岡林さんが元祖というか、そんな存在でした。

歌詞の一つずつに味の濃い人生の生き様が表現されていると思います。

後に続いた多くのシンガーとは一線も二線も三線も画している「フォークの神様」です。

今、70代後半ですが、今もどこかで歌っているのでしょう。

では、「私達の望むものは」を紹介して終わります。


私たちの望むものは 生きる苦しみではなく

私たちの望むものは 生きる喜びなのだ

私たちの望むものは 社会のための 私ではなく

私たちの望むものは 私たちのための 社会なのだ

私たちの望むものは 与えられることではなく

私たちの望むものは 奪いとることなのだ

私たちの望むものは あなたを殺すことではなく

私たちの望むものは あなたと生きることなのだ

今ある不幸に とどまってはならない

まだ見ぬ幸せに 今跳び立つのだ


ロシアやウクライナやアジア諸国の軍事的な動きは次第に厳しい様相になっています。

そうならないように願うことは出来ても私達には止める力もありません。

声を大にして叫ぶしか出来ません。

しかし、声も出さない人が増えて来ていると思うのは私だけでしょうか・・・

地球は一つです。青い地球を地球の外からいつも見えるようにしたいですね。

月にWebカメラを据え付け、太陽光電池で24時間365日、その美しいたった一つの

地球を眺めたいたいですね。

どこかに凄いお金持ちがいて、それを実現してくれませんかね・・・

では。

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