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長嶋茂雄 第286号

  • 執筆者の写真: 社長
    社長
  • 7月1日
  • 読了時間: 9分

更新日:2 日前

私がスポーツの中で野球、それも自身がプレイすることが好きだったのですが、私に大きな

影響を与えた方が過日、お亡くなりになった長嶋茂雄さんです。

私だけでなく、昭和を生きて来た人で長嶋さんが嫌いだったという方にはお目にかかったこ

とがありません。特に、他人の悪口を話していることがなかった点は、唯々、凄い方だなあ

と私も高齢者の年齢になって来るととても真似できないなと感じ入ってしまいます。人は出

世して偉くなれば、他人のことについてあれこれ言い出す人も多いと思います。

しかし、長嶋さんからそんな話を聞いたことが一度もありません。野球人として優れていた

ばかりか、一人間として凄い方だなと尊敬してしまいます。

それにお亡くなりになった年齢が89歳(や・きゅう)だったことに、不思議な一生だった

と思わずにはいられません。ご冥福をお祈りします。

私事ながら、宮崎の春季キャンプで長嶋さんが野手にノックする姿を見たことがありますが

何か華があり、格好いい!のでした・・・


私の少年時代は長嶋さんへの憧れの時代でもありました。

小さい頃はまだ太平洋戦争の傷跡があちこちに残っていて、戦後10年余り経っていました が、あちこちに戦争の傷跡や戦後の貧しさも残っているような時代でした。

学校給食では牛乳ではなく、人工の脱脂粉乳でした。恐らく今の若い人達は知る由もありま

せん。家の食事にも小さな庭に植えていた野菜や庭で飼っていたチャボの卵などが出たり、

時にはそのチャボが食卓にあったりしました・・・とてもじゃないですが、食べられません

でした。また、時にはキジ猟をした父の友人から、弾が体に入ったままのキジを貰ったりし

ていたのも良く憶えています。これも子供には美味いと思える雰囲気ではありませんでした。

また、商店街のアーケードにも戦争から復員した傷痍軍人が座り込んで、金銭の恵みを待っ

ている風景もよく見かけました。子供服も袖はツルツル光っている子が多い時代でした。

まだまだ貧しかった時代でした・・・

そんな時代だったので満足な遊びもなく、空き地や広い道路させあれば、野球が手っ取り早

い遊びでした。


幼少の頃は柔らかいゴム製のボーㇽと竹を切ったバットを使って、三角ベースで遊んでいま

した。いつも友達と暗くなる直前まで毎日のように遊んでいました。

2,3人もいれば、すぐに野球をしていました。子供の遊びと言えば野球しかなかった時代

でした。川遊びなどもありましたが、野球が一番多かったと思います。女の子でも一緒に野

球をするような時代ででした。また、大人の自転車に三角乗りという乗り方で器用に乗って

いました。今の子供はそんな乗り方は知らないだろうと思います。よく乗ったものです。


その頃、テレビ放送も始まり、全国へ拡がりつつありました。地方へも次第に増えていった

時代で、テレビは白黒でも高価でした・・・カラーテレビはもっと後になってから出て来た

時代です。当時のテレビはブラウン管の四隅が丸く、チャンネルもカシャカシャと手回しで

した。放送時間も今よりずっと短く、見ない時には画面に布が掛けてありました。

民放もまだ少なく、今では想像できない時代でした・・・


やがて、我が家にもテレビがやって来ました・・昭和30年代前半ではなかったでしょうか。

近所の子供達も見にやって来て、まだ珍しかったので何人もゴザに座って画面を見ていまし

た。その頃によく見た番組は月光仮面でした。また、父親が見ていたのは力道山のプロレス

や巨人の野球、そして大相撲でした・・・

月光仮面以外は父親が見ている横で一緒に見せて貰いました。当時、チャンネル権は子供に

はありませんでしたので、どこの家でも父親中心だったと思います。野球だけは親子で見る

ことが出来たので自然に野球が面白くなった訳です。

しかし都市方都市でしたので放映は巨人中心でした。当時から巨人は全国区で、放映数も他

チームより多かったと思います。こうなると、地方の子供達はごく自然に巨人や長嶋や王が

好きになる訳です。そもそも他のチームを詳しく知らない訳ですから・・・


野球以外の番組では父親が見る番組を一緒に見ていたので、番組が好きというよりテレビが

見たくて、父親が見る野球やプロレスや相撲を一緒に見たことが記憶に残っています。

父は毎晩、晩酌をしており、芋焼酎の薩摩白波という地元銘柄をいつも飲んでいました。

勿論、一升瓶を出して小分けして飲んでいました。芋のでんぷんの匂いがしていました。

地元では毎晩、どこの家でも同じように父親達は焼酎を飲んでいたと思います。

地元ではこの晩酌を「ダイヤメ」と呼んでいました・・・由来は分りません。


当然、私も贔屓の野球チームやプレスラーや相撲取りがいました。野球はやはり巨人です。

プロレスは空手ショップで有名な力道山、相撲取りでは胸毛も眉毛も濃い朝潮でした。

巨人の長嶋がチャンスに強い場面は親子で好きでした・・力道山は言わずと知れた外国人レ

スラーに最初はやられにやられ、最後に天下の空手チョップで逆転するお決まりのストーリ

ーでしたが、まるで自分が戦っているような錯覚に陥ったものです。

父親は血が騒ぐのでしょうか、自分のことのように興奮していた姿を思い出します。

私はこんな環境下で自然に巨人、それも長嶋がお気に入りの少年へと成長して行ったのです。

ついでながら、父親は巨人が逆転でもされようものなら、試合中なのに途中でテレビを消し

てしまう人でした。子供心に何で消すんだ!?と心の中で叫んでいました・・・


さて野球の話に戻りますが、小学校時代に父がグローブを買ってくれたのですが、表面は革

ではなくビニール製で、グローブの中には荒縄が入れてあったのです。子供向けのおもちゃ

のグローブでした。大ショックでした・・・

また、ユニフォームなどもないので自分で作ろうと白いシャツの背中に長嶋の背番号「3」

と縫い付けたかったのですが、数字が難しいので「1」を自分で縫い付けた思い出がありま

す。その当時の長嶋は大変な人気でした・・・チャンスには強いし、ヘルメットは飛ばすし、

守備では三塁を守っているのにショート付近のゴロまで横取りするような取り方で一塁へ投

げるし、投げ方も形になっていてそれは格好良かった・・・当時のショートだった広岡さん

は面白くなかったそうです。目の前で自分の取ろうと構えているのにボールを横取りされる

訳ですから・・・

私の時代は長嶋で、その直後が王貞治さんのファン世代だったと思います。

長嶋ファンと王さんファンは違っていたように思います。

長嶋が後楽園球場で引退する時は生でテレビで観ました。東京の高島平という巨大な団地内

の知り合いの家で見ていました。皆、泣いていました・・・私も涙が出ていました。一つの

時代が終わった瞬間でした・・・


さて、父親のテレビの見方ですが、実に単純で明快でした。

頑固親父そのものでした。見ている人達は関係ないのです。父親がテレビを消すと私達はス

イッチON出来ないのです。それだけ父親は腹が立っていたようです。巨人が負けるとそう、

力道山がやられると酒量が増える、こういった分かり易い面が父にはありました。当時の父

親は恐い存在で、叩かれたり殴られたりは当たり前でした・・・

今の時代とはまるで違います。小中高時代の教師ですらそういった先生がいました・・・


長嶋さんは日本国民から一番愛された野球選手だったと思います。ここぞという時に打つの

で、何処かしら当時の日本社会の変化を象徴していたヒーローだったと思います。長嶋のさ

んの話を聞いていると何を話しているのか分からない話し方だったり、サイドブレーキを掛

けたまま高速道路を走ったり、自分の息子を球場に置き忘れて帰宅したり、兎に角、普通の

人は起こさない逸話の多い人でした・・・

そんな人が冒頭でも書きましたが、人の悪口を決して言わないのです。これはなかなか出来

ないことです。考えていて出ないのではなく、元々出て来ない人なんだろうと思います。

つまり、最初からそういった人間なんだと思います。

普通の人は上手くいかなった時や人が起こしたことが原因でトラブルが起これば、言いたく

もなるし、言う事もあります。しかし、長嶋さんは絶対に言わなかった・・・

こんなヒーローはなかなかいません。我慢して言わなかったというよりもそういう人だった

のです。人の名前をずっと間違えたまま言ったりなんかも許される人柄でした。

英語なのか日本語なのか、どっちかで喋ればいいのに両方を混ぜて喋る人はなかなか見かけ

ません。恐らく金銭感覚もなかったのではないでしょうか?・・・

長嶋さんだからこそ許されたのだろうと思います。


選手から監督になると、「名選手、名監督にあらず」と言われます。

確かにそうかも知れません。当初はそうだったと思います。そんな選手がスポーツ界には多い

です。教えるコツも違うでしょうし、目線というか視点のレベルが違うと思います。求められ

る成果が選手時代とは全く違うからかも知れません。

有名な話で松井秀喜さんがニューヨークヤンキース時代に長嶋さんとお国際電話でバットを何

度も振り、その音を聞いて、もっとこうしたらと返し、最後にはそれでいいと話した逸話は特

に有名です。こんなこと普通の人同士では通じません。互いが高い水準だからこそ出来た話だ

と思います。その証拠に普通のプロ野球選手には通じないようです。教えられた選手は何も具

体的ではなかったように感じているようです。また、練習は人前でやるものではないという信

念もあったようです。


現役最後の日はよく憶えています。

皆さん、そうでした。一つの時代が終わったと感じました。

更に例の名セリフです。「我が巨人軍は永遠に不滅です」の言葉でファンの皆さんは涙したと思

います。

私の少年期から心の中にいた方でした。在りし日に宮崎のキャンプでノックする長嶋監督を目

の前で見たことがあります。声を出しながらノックする姿は今でも脳裏に残っています。

カッコ良かったです・・・


永い間、本当に有難うございました。どうか安らかに・・・

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