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関ケ原の戦い・続編 第230号

昨年の8月30日に初めて岐阜県不破郡関ヶ原町の古戦場跡を訪れてから早くも1年が過ぎました・・・ その時に関ヶ原の戦いを石田三成率いる西軍の視点から「どうして西軍は負けたのか?」と私の個人的見解で本コラムへ書かせて貰いましたが、どうみても布陣した場所や陣型や軍勢数から考えると、西軍有利の結果しか考えられないのでした・・・

これは陣後をつぶさに歩いてみても勝つべき戦さではなかったかと確信出来ます。東軍の家康側は毛利勢を抑え込んでいたことも決定的で、家康軍が毛利勢に背後を突かれていたならこれはもう西軍の勝ち戦であったことは明白です。論理だけでは戦さには勝てないということです。

たった半日、それも6時間という短い時間で負けたのは、小早川秀秋の裏切りがあったことが敗因の一つとして考えても、余りにも脆く崩れ去ったように感じられ、本当にそれが原因で負けたのではないように戦場跡では感じました。

簡単に言えば、家康は時間をかけて準備を行い、天下取りの状況が揃うまで時期をじっと待ち続け、負ける筈がない総合力を身に着けてから勝つべくして勝ったと私は考えています。 この点において石田三成は家康のいない間に取り急ぎ挙兵した印象が強く、周囲にも大谷吉継のように今はその時ではないと諫めた部将もいたのですが、バタバタと仲間集めを行い、西軍に味方はする部将はあったものの、本当は戦いたくなかった部将も多かったのではないでしょうか?・・・

反面、家康は勝つべくして勝ったと思うのですが、どんな勝因で勝っていたのか、そのことを自分なりに分析してみたいと思い、今回の続編では徳川家康率いる東軍からの視点から6時間の短時間で終結したあっけない天下分け目の戦いを分析してみたいと思い、東軍の現地跡を訪問した次第です。 今年の訪問は9月8日でしたが、主な陣跡として徳川家康の最初に布陣した陣地、南宮山近辺の東西軍の陣地は是非とも観て情報取集をしたかったのですが、生憎と駅前のレンタサイクル屋さんが休みで歩くしかなく、徒歩ではとても南宮山までは遠すぎるので諦めざるを得ませんでした。 それに南宮山に登るのも2時間近くはかかると思いましたので、せいぜい東側は本田忠勝の陣跡から西側は福島正則の陣跡までとし、北は黒田長政のいた岡山烽火場(のろしば)から南はやはり福島正則の陣跡までとしました。 これでも結構広く、歩くだけで疲れます・・・ それでも松平忠吉、井伊直政、東西首塚、細川忠興、黒田長政、竹中重門、本多忠勝、藤堂高虎、京極高知、田中吉政、福島正則、そして徳川家康の最後の陣跡を回ることが出来ました。 ここで竹中重門という聞き慣れない名前が挙がっていますが、この人物こそこの関ヶ原一帯を熟知していた地元の武士なのです。岡山烽火場は絶好の高台で東軍、西軍とも手に取るように見える場所だったのです。

東軍の陣跡の印象は、広い平地に東軍武将が広範囲に散在しているのが印象的でした。 また、西軍の部将で裏切ったり動かなかった部将は戦場の中心よりもやや離れた場所に布陣していましたが、これも何か因果関係がありそうな気がしました・・・ つまり、怪しい味方は皆の中には置かず、離れた場所に配置しています。逆に皆の中に挟んで入れた方が良かったかも知れません。 睨みが聞くし、いざとなれば主だった部将を殺し、残りは他の部将に預けるのです。

実は西軍の吉川広家、毛利秀元、安国寺恵瓊、長束正家の陣跡と、それらに備えていた東軍の池田輝政、浅野幸長、山内一豊の陣跡も是非とも見たかったのです。 ここに私なりの大きな謎があったからです・・・

これら東軍の備えには明らかに毛利勢へ備えたのでしょうが、やや西軍より軍勢は少ないですが、本当に戦っていたら守れたどうかも調べたかったのです。 毛利秀元の1万5千の存在は大きく、家康の真後ろに出られる絶好の場所だったのです。 そこの備えもどうだったかも見たかったのです。 実は徳川四天王の本多忠勝が東軍の軍監としてあちこちの陣地を観て回り、戦っている際にも見回っていたのですが、家康本陣の後方についても問題なしと判断したと考えます。 つまり、東軍の上層部には吉川広家の裏切りは公けになっていたと。 裏切りなどその時にならないと本当は分かりはしません。 小早川秀秋がいい例で、19歳の部将で1万5千の大将が味方を裏切る度胸はなかなかあるものではありません。 秀秋は最後の最後まで迷っていたと私は考えています。 裏切るのも大変な勇気が必要だからです。 その時に史実は本当かどうか分かりませんが、業を煮やした家康が秀秋の陣がある松尾山方向へ鉄砲を打ち込ませ、決断を迫った話は本当かも知れませんが、当時は合戦の最中で鉄砲の音などかけ消される状況だったと思います。 この裏切りがもとで秀秋はこの戦いから2年後の21歳で半病人のように亡霊に悩まされ、何と自分が攻めた宇喜多秀次の居城だった城で亡くなっています・・・

戦況が変われば人の心も変わり易く、東軍の家康が負けると逆に裏切る部将もいたと思います。 人の心とは怪しいもののようです・・・ 毛利秀元の下方に陣を張っていた吉川広家は東軍に内通していましたが、絶対的位置に陣取りを行い、自分の陣より高い所にいる秀元が出陣する部隊を通せんぼする情けない戦さになったのです。 この話は有名な故事にもなっていて、広家隊へ秀元の伝令が出陣するので広家の陣を速やかに空けるように強く催促したのですが、広家は「今は昼どきで、皆弁当を食べておりますので、終わるまでお待ち下さい」と人を食ったような弁解を述べ、本家にあたる秀元隊や他の部隊を堰止めたのです。

こんな馬鹿な話は今まで聞いたことがありません。 戦場で今まさに戦っている時に昼飯しているので、終わるまで待ってくださいとは・・・ それ以来、毛利家はこの故事によって江戸時代を通じて他藩から中傷され続けました・・・ この時、毛利家筆頭であり、大老でもある毛利輝元は西軍の総大将として大阪城で控えていました。 つまりそれ以上のことは何もしていません。総大将なのに・・・

秀元が南宮山に陣を構えた理由も分かりません。 本当に何故、この高い山(419メートル)に陣を構えたのかと私は大いに疑問に思うので、実際に登ってみたかったのです。 実は輝元と家康は割と仲が良かったのです。 しかし、この戦さの後で毛利家は大変な戦後処理を家康から言い渡されます。 それも裏切った吉川広家へ家康は通知するのです。 もし家康の処置の通りになっていたら、毛利藩は改易され、その後は存在していないのです。 家康が約束を違えたのには理由があります。 西軍に味方する血判書が見つかり、花押(その人のサインのような印)と自筆の名が見つかったのです。

そもそも南宮山のような高い山に普通は陣を構えますか?・・・  降りて来るだけで1時間はかかるのですよ。 陣構えにも吉川広家の知恵が働いていると私は考えています。 きっとうまいことを言ったんだと思います。 秀元の軍勢は1万5千の大軍です。一緒に近くにいた他の安国寺恵瓊、長曾我部盛親、長束正家も合わせると2万近い軍勢です。 これらが戦わずに遁走したのですから、関ヶ原には恥を掻きに来たようなものです。 ましてや家康の真後ろに出られる絶好の場所にいたのです。 家康という武将が裏切りを100%信じて、その直前に陣取るとは思えないのです・・・

南宮山から麓へ降りて出陣するだけでも大変なのに、馬、槍、鉄砲、弓、矢まで持って下りのが大変なことは誰でも想像できます。 しかも、この戦さの重要な場面で動けない大軍なのです。 毛利秀元や長束正家、安国寺恵瓊などの計1万数千の軍勢なら力で通れます。 戦さはタイミングが重要です。 終わってから出て行っても何の意味もありません。 それを考えると、毛利も西軍に参加して積極的に戦おうとは思っていなかったのではないかと疑いたくなります。

小早川秀秋のいた松尾山(290メートル)を昨年、実際に見上げた時に、何でこんな高い山に陣など作るのかと思いましたが、共通する心理を感じてしまいます。 本音は戦いたくなかったのではないかと本当に思います。 実際、東軍の陣地跡を歩いてみて、先に布陣した西軍に対して東軍の布陣した不利さが感じ取れます。 東軍は割と平地に陣取るしかなく、しかも広い範囲に展開するしか戦い方はありません。 陣型として東軍より西軍が優っていたのは間違いありません。 先に西軍から来て陣取りしたのですから有利な場所を確保し、防護柵も作っておけたのも当然です。 それが決戦の日、たったの6時間と予想に反する短時間で惨敗したことが魔訶不思議に思えます。 大谷吉継の指摘した通りになりました。

東軍の各陣地跡を歩いて分かったのですが、家康に味方した部将の数が多かったことも勝因の一つかも知れません。つまり、戦場では融通が利く働き方が西軍より出来たのではないかということです。 小回りが利くということでしょうか・・・ 西軍は全体として、味方した部将の数は東軍より少なかったのですが、兵員数は逆に多く、それでも積極的に戦わない、戦いたくない、そんな部将もいたようで、中には戦中に寝返った部将も何人かいました。 この点はこの戦さの背景として重要で戦意にも繋がる話です。 負け始めると、さっさと踵を返して逃亡する者も出るのが戦さなのです。 負けが決まったのに攻めて行くのは自殺行為です。 すさまじい勇気がないと出来るものではありません。 これをやったのが島津義弘です・・・

石田三成は色々な部将に嫌われていて、福島正則、細川忠興、黒田長政などいずれも豊臣秀吉が育てた部将ですが、三成との折り合いが悪くどうして東軍になったの?となる訳です。 文官と武官の違いなどもあるでしょうが、三成には人としての欠点がいろいろあったように思います。 礼を逸する態度はよく言われる話です。 つまり、能力重視に偏っていた面が強かったと思います。 それに比べ家康は多くの徳川家家来を秀忠に預けており、関ヶ原には間に合いませんでした。 実際の東軍の多くは「お味方致す」の応援で参加した部将達でした。 後継者として考えていた秀忠は3万8千という大部隊で関ケ原の戦いに遅れるという大失態を起こしてしまい、父の家康から後日にひどく叱られる羽目になるのでした・・・ 理由は天候不順や信州上田の上田城攻略が出来なかったこと、そして家康よりの急便が届くのが遅かったことです。 上田城は大阪夏の陣まで家康を苛立たせた真田幸村と父の昌幸が徹底抗戦し、ついに落ちることがありませんでした。

関ヶ原で家康の直属と言って良いのは、井伊直政、本多忠勝、家康の四男である松平忠吉くらいで、それに家康本陣を合わせた兵員数です。 そういう事情があったのか、西軍より数千人以上も少なったのです。 それでは以下の順に話を進めます。 今回も長文になることをお許し下さい。

1.関ヶ原以前 石田三成と徳川家康の仲が悪かったのは豊臣秀吉の存命中からであり、家康以外にも秀吉子飼いの部将達とも三成は仲が悪いでした。 例えば、関ヶ原の戦いに東軍から参戦している福島正則、黒田長政、細川忠興はその典型です。 彼らは部将であり、三成のような頭脳と才能で出世した人物とは違い、自分達の命と引き換えに戦って来た者達です。 それが何かにつけ、鋭利な言葉で気遣いなく言われれば、苦々しい思いを感じていた部将は多かったと思います。 特に、細川忠興は妻のガラシャ(明智光秀の娘)を三成の軍勢に人質として取られそうになり、キリシタンであったガラシャ夫人は自刃してはいけない為に家来に短刀で突いて貰い、その上で住まいに火を付けて生涯を終えました。 忠興の憎しみは骨髄まで染みていたのです・・・ また、黒田長政も同じように妻を人質に取られそうになっています。

当時は女性や子供は敵方の人質に取られることが多く、無念の死を迎えた妻子も多かったのです。 今と違って敵との勢力バランスの中で人質が決まっていました・・・ 徳川家康本人も幼少から今川義元へ人質として送られ、織田信長に義元が打たれるまでは下克上の中で生きて来たのが当時の武士の世界なのです。 家康自身もいろいろと人質を求めていますので、女性や子供には非情な時代だったのです。 だからこそ余計に部将は正室以外に側室も多く、子供の数も多いのです。

また、家康は豊臣家を後見する五大老の中で一番力があり、石田三成は大老ではなく一つ格下の奉行という地位でしたが家康とは敵対していました・・・ また、三成はその奉行職でやり過ぎたことを周囲に叱責され、一時、家康の庇護により佐和山城に下がっていたこともあり、その時に家康に助けて貰い、借りを作ったようになっていました。 こんな時、家康は大老達に秀頼へ挨拶に上洛せよと申し付けます。 その申し出に大老の一人である上杉景勝は何度にもわたる催促を無視したので、謀反の疑いありと怪しまれれ、家康を大将に上杉討伐軍が組織され、会津にいる景勝を攻めに行軍します。 実に家康らしいやり方で、自分の周囲のライバルを巧妙な言い方で蹴落としていくのでした・・・ この出陣中に三成は家康への挙兵をするのです。 三成挙兵の知らせを聞いた家康は、急遽、今の栃木県小山で故事となった「小山評定」を諸将と開き、三成挙兵への対応策を協議します。 その結果、息子の結城秀康と伊達政宗をその場に残して、三成を討つべくそこから踵を返すのです。 上方へ先を急ぐ為に家康はその大軍を二手に分け、自分は東海道を、秀忠にはここという場面で手柄を上げさすように主軍を預けて中仙道を行かせます。 その結果が遅参することとなり、父の家康から大目玉を貰い、暫くは会っても貰えませんでした。 父の期待に沿えなかったばかりか、諸将の前で恥まで掻いたのですから・・・

2.秀忠の遅参 西進する際に家康は二手に分けましたが、その正確な理由は定かではありません。 一つ目は秀忠に手柄を立てさせたかったこと、2つ目は数万を超える大軍を伴うと三成との決戦に大軍で移動すると到着まで時間がかかり過ぎることと言われています。 この秀忠は3万8千の兵を率い、信州上田で手痛い目に遭います。その相手は真田一族です。 真田親子は家を遺す為に子供を東軍と西軍に分け参加させます。 長男の信之は東軍へ、父・昌幸と次男と幸村は西軍に味方したのです。 しかし、信之を怪しんだ秀忠はその証拠に砥石城を攻め落とすように指示します。 信之は親子での事前の打ち合わせ通りにうまく立ち回って砥石城を攻め落とします。 それから以降は真田信之は徳川側として参戦を続けることになります。 弟の幸村は大阪夏の陣でその生涯を閉じますが、幸村の知略と勇気により徳川軍は何度も痛い目に遭ったのは歴史の通りです。 秀忠の関ヶ原遅参の話は本人にも一生の不覚となり、生涯消えない汚点として残ることになります。 この事で家康も跡継ぎは秀忠で大丈夫なのかと考え込むことになります。 しかし、秀忠を後継者に改めて決意するのです。その理由はある家来の言葉にもあります。

3.南宮山の不可解 この毛利軍が戦わなかったことが西軍の負けた大きな要因にもなっていたと私は思います。 何度も言いますが、桃配山の麓には南宮山を背にした家康本陣があり、家康は前方(西軍側)の形勢が有利になるまで本陣を構えていたの で、時間的には丁度、午前から昼前が絶好のチャンスだった筈です。 これも何度も言いますが、この陣型だと東軍の家康側が不利なのです。

しかし、毛利秀元の下方に陣を張っていた吉川広家が予め示し合っていた通り、秀元の兵を通さない様に行動した為に、絶対的有利だった毛利勢の陣地は参戦が出来ませんでした・・・ この裏切りは吉川広家と黒田長政の間で密約されていた話であり、当然、家康も知っていたので、家康本陣の後ろに対しての対応は多少手薄だったと思います。 また、毛利側でこの東軍との密約を知っていた者は他にいませんでした・・・ 広家の対応は世間では有名な故事にもなっており、秀元の伝令が広家の陣に来て出陣するので場所を空けるように促しても、広家は「今は昼で皆、弁当を食べているので待って下さい!」と人を愚弄した返事で動かなかったのです。 こんなバカバカしい戦さの最中での話は聞いたことがありません。 生きるか死ぬかの時に、弁当が終わるまで待ってくれという部将も部将なら、そこを蹴散らして進軍しない秀元も秀元です。世間で笑われる話のネタとして後世まで馬鹿にされても仕方ないと思います。 また、この戦さの最中に総大将たる毛利輝元は大阪城に控えており、関ヶ原には参戦していません。 これにもそれなりの理由はあるでしょうが、家康とここまで事を起こすのであれば、やはり出陣はすべきだったのではと思います。

さて、ここで根本的な大きな疑問があります。 どうしてこんな高い南宮山(標高は419メートル)に秀元は陣を構えたのか私には謎です。 小早川秀秋の陣があった松尾山ですら290メートルで南宮山よりも100メートル以上は低いのです その松尾山から麓まで降りる際には約40分はかかるそうです。 そこに刀、鎧、馬、槍、弓矢、馬なども必要なの簡単な行程ではありません。 南宮山から下りるには一時間はかかると思います。 本当に何故、そんな高い山に陣を張ったのでしょうか?・・・ 上から観ていて、今がチャンスだと思っても麓に降りる際に1時間後です。 戦機が変っているかも知れません。

だから、私には大きな疑問に感じるのです。 他の部将も含めて1万8千の兵が山から1時間かけて下りて来て、下に着いたら直ぐに戦うのですから尋常ではありません。 疑いたくはなくても通せんぼをしただけで通れなくなるものかと感じてしまいます。 この広家の騒動を、世間ではこの故事を「宰相殿の空弁当」と揶揄して馬鹿にしたそうです。

広家はお家大事と自分で考えた末、東軍有利と考え家康側へ黒田長政を介して毛利家安堵という密約を交わしていました。 しかし、戦さが終わった後、家康からは広家へは広家に36万石を与え毛利家は改易する話でした。 さすがに、これは話が違うと広家は自分に与えると言われた石高36万石をそっくりそのまま毛利家へ与えて下さいと願い入れ、再検討して貰ったのです。 家康が毛利を改易しようと考えたのは、西軍の連判状に毛利輝元の筆跡と花押が見つかったからです。 毛利家は参戦時に120万石の大藩で、中国地方全体を領土として持っていましたが、この戦さで領土は山口と広島に縮小され、広家は岩国領3万石を与えられました。 これで毛利家全体として36万石は残りましたが、それ以降ずっと吉川家は毛利家から無視され続け冷遇されて来たそうです。

秀元が家康本陣を後ろから突いていれば、戦局は全く変わっていただろうと思います。 広家に恥をかかされ上、そのような密約までしていたことも明るみになり、毛利家と吉川家の主従関係は江戸時代の間ずっと無視され冷遇されたようです・・・ 私の推測ですが、もし毛利秀元が家康の本陣を後ろから突いていれば、西軍も勢い立ち怒涛の如く東へ動き、挙句には日和見的だった小早川秀秋も裏切りはしていなかったかも知れません。 毛利家の悔しさはこれ以降幕末まで続いたのかも知れません。

余談ですが、九州の雄藩でありながら東軍に味方して加増された熊本藩や福岡藩からは幕末の討幕運動も起こってはいません。 毛利の長州藩はご存じのように過激な尊王攘夷へ走ったり、外国船を砲撃したり、最後には西洋諸国との文明力の差も悟り、開国へと進んで行きました・・・ 同じく薩摩も、生麦事件をキッカケに英国と薩英戦争を起こしましたが、薩摩は英国の圧倒的な技術に圧倒され、鹿児島その技術を学びたいと思いました。一方の英国は当初は簡単に謝罪するだろうと考えていた薩摩が本気で戦闘を開始し、艦隊の旗艦が被弾し艦長らが死亡した上、謝罪などしない薩摩に幕府以上の強さやブレない考え方に驚きを憶え、やがて薩摩は英国から軍艦を買いたいと英国の本来の目的であった貿易を始めるのでした・・・ 薩摩はその上、幕府に内緒で19名の若手藩士を留学生として英国へ送り込み藩費で学ばせたのです。 大きく言えば、日本はこうして攘夷から開国へと移り、やがて富国強兵を目標に西洋列国の植民地にもならずに済んだのです。

4.寝返り工作 小早川秀秋の東軍への寝返りは関ヶ原の戦いではいまだに有名な話ですが、この寝返りは徳川家康だけが頑張ってみても成功は難しかったと思います。 私は黒田長政の暗躍があってこそ、小早川秀秋も吉川広家も寝返ったのではないかと考えています。 その理由は黒田長政も福島正則も細川忠興も元々は豊臣秀吉に育てられた恩義のある部将達です。 そんな恩義がありながら寝返るのですから、彼らは石田三成へ大きな不満が溜まっていた訳です。 この点については同調する部将も多かったと思います。

西軍についた薩摩の島津義弘は敵陣へ夜討ちをかえる案を出したところ、西軍は大軍であるからそんな策は無用だと言われ、軽く扱われたことに腹が立ったそうです。 また、戦さの当日、三成の使いの者が馬に乗って義弘の陣に来て、馬上から指示を言われ甚だ礼を逸した態度に、島津は島津の戦い方をすると来る敵は相手するが、それ以外は動かない考えをその使者に伝えたと言われています。 これなど本当に西軍には損な話です。何故かというとその後の島津の正面突破などもっと活かし方があったろうにと思います。

凡そ、戦さに際して寝返るなど武士たるものがと言いたくなるのですが、これは単なる武家同士の戦いではなく、お家大事の戦さでもあり、負ければ代々続いた家が途絶えてしまう戦いなのです。 吉川広家は毛利家存続を最優先に考えて東軍が勝つとの判断から、西軍の総大将である毛利輝元にも黙って密約を結んだのです。 この広家のお陰で、毛利家は取り潰しにはならなかったのですが、家康は当初約束した領地安堵を反故にした話は先程しましたが、最終的に毛利家は残りましたが、吉川広家の裏切りは主家として情けなさや切なさを感じてしまいます。 毛利秀元(初代長府藩6万石藩主で輝元の従弟)は、戦後に広家が裏切ることを密約した上、家康から長州藩全部を譲られる話を聞いて激高したばかりか、主家を売ったとして幕末までの250年間、長州藩は吉川家を無視し続けたそうです。 それほど恨みや恥を毛利家は掻かされた訳です。

もし、もしかしてですが、この時に毛利軍が総勢2万人近くのまま戦っていれば、防戦する役目の山内一豊、浅野幸長、池田輝政、中村一忠など1万5千余りと勝敗はどうなっていたか分りません。 それも戦端が開かれた後の2、3時間後が勝負だったと思います。 家康は不意を突かれ、正面の西軍だけに気を配るだけでなく、後ろの毛利勢にも挟まれる可能性がありました。 南宮山から下りるのが無理なら、家康本陣の直上に出る桃配山の峰を降りるコースもあります。 これらが弁当の話で世間の物笑いになったのです。

この広家にも黒田長政が絡んでおり、正直なところ私は黒田長政が今回の調べで好きではなくなりました。 男らしい部将だと思っていましたが、こういった裏工作を積極的にやっていたとは色あせて見えて来ました。 家康自身であれば、そんな裏工作でも平気ですが、どうも武勇を誇った部将が裏工作をして、敵に裏切りを誘う姿は感心出来ません。 むしろ、恥ずべき行為だと私は思います。 家康ですら小早川秀秋が大谷吉嗣や宇喜多秀家を横から突いた時に、それまで西軍だった赤座直保など4名の部将が西軍を裏切って東軍に味方したことを、戦後の評議で家康は死罪にしました。 裏切りは、武士がしてはいけない最低の行為だったのではないかと思います。 戦さの途中で裏切るのと、戦う前に敵軍へ寝返ることは違うのです。

5.生臭さ坊主 安国恵瓊寺(あんこくじえけい)という臨済宗の僧侶が毛利家にいます。 僧侶でありながら、毛利家の外交を担っている人物です。 怪僧といっても良いと思います。 この僧は関ケ原の戦いで出陣もしており、毛利秀次の近くに3千名余りの陣も構えています。 この人物こそ石田三成らと計って家康に反旗を翻し、毛利輝元を西軍の総大将にした本人なのです。 坊主ながら交渉力があったのか、雄弁だったのか、頭脳明晰だったのか、良くは分かりません。 この坊主は結局、東軍に捕らえられてしまい、石田三成と小西行長と同じく市中引き回しの上、六条河原で打ち首となり、三日三晩晒し首になった人物です。

前者の武士達は分かりますが、坊主が打ち首とは相当に我慢できない気持ちを家康は持ったと思います。 普通、武家が仏門に入ればそれまでの経過は見逃され、世捨て人となります。 部将でもそれ以降は手を出さないものです。 三成も幼い頃は茶坊主でしたが、どこかで同じように共通面でもあったのでしょうか?・・・ 厳しい沙汰は家康からすれば、坊主が出しゃばりおって武家の争い事に口を挟むなど、あってはならないといった心境があったのかも知れません。 仏門に入れば訴追されないのが当時の社会的決まりでした・・・

6.福島正則 実際に関ケ原に行き、東軍の陣跡を歩いてみると西軍ほどには武勇伝とか陣地の凄さとか悲壮感というか、そんな印象を3,4名の部将を除いては東軍には感じませんでした・・・ 理由は分かりませんが、関ケ原の古戦場跡では勝った東軍よりも負けた西軍に悲壮感を感じたのですが、私自身何故なんだろうと思います・・・

しかしそれでも、東軍の中で唯一、そんな感情を抱いたのが勇猛果敢で癇癪持ちだった福島正則です。 その陣跡は東軍の中でも西軍に最も近く、東軍の仲間から遠く、その陣には樹齢800年と言われる太くて高い一本の木が立っていました。 関ケ原の戦いが420年ですから、その木の下で正則は戦果を聞いたり、命令を出したり、或いは戦勝を祈ったりしたのかも知れません・・・ 正則の陣にに近かったのは藤堂高虎と京極高知ですが、それでも精神力が強くないとこういったことは出来ないと思います。 やはり、正則には先鋒が似合います。 正に切込み隊長に打ってつけです。 勇猛果敢な性格であるばかりか、逃げない、一点に目標を定め向かっていく性格で、こんな人でないと先鋒は務まらないと思います。 自軍が敵に押されると出て行って押し戻すほどの精神力を持っています。

この福島正則という人物は話題に事欠きません。 豊臣秀吉の母親と正則の母親が姉妹で、秀吉とは従弟同士になります。 ましてや秀頼は従弟の息子にあたり、正則には親戚でもある訳です。 大酒飲みで粗暴で癇癪持ち、すぐに腹が立つ性分で始末が悪い・・・ こう書くと、凡そ藩主には似合わないと思われがちですが、それがまた逆で、善政を敷き、領主としては領民に慕われていたといいます。

折角、その武功を評価され、家康から貰った領地や石高も2代将軍徳川秀忠の時代に居城の修復を何回か勝手にやったという罪で領地を没収されています。いわゆる改易です。 正則にしてみれば、武家であれば当たり前のことをやっただけなのでしょうが、泰平になった江戸時代には大名としてルールを守らない困った人物だったのでしょう。 徳川幕府も、これだけの活躍をした部将ですので気を遣い、正則亡き後、息子を徳川家の旗本として雇い入れてお家断絶だけは免れたようです。

正則の性格を表す話として、黒田長政の家臣が福島家を訪れた際、その家臣が大酒飲みで有名だったらしく、正則も大酒のみなので酒を勧めたが、昼間でもあり役目で来ているので酒を断ると言われ、ムキになった正則はどうしても飲ませたくなり、難癖をつけた上で相手を怒らせてしまったそうです。 それでも更に、その酒を見事に飲み干したら秀吉から拝領した家宝の槍をあげると言い出し、相手もそれならばと酒を見事に飲み干したそうです。 勿論、褒美として豊臣秀吉から拝領した槍をあげたそうですが、後になって正則はそのことを大いに悔いていたという話です。

また、こんな話も残っています。 正則の家来を酒の席で強く叱りつけてしまい、その勢いで切腹を命じ、見事に腹を切った上、首も切り落とされたそうです。 ところが翌日、酔いも冷め、その家来の首を前に、済まなかったと泣きじゃくっていた正則の姿があったということです。 正にすぐにカッとする気性の激しい性格であり、そこに酒が入ると、誰にも止められなくなる性分だったようです。

しかし、こんな正則でも例外的に一人だけ頭の上がらなかった人がいます。それが何と奥方で全く頭が上がらなかったそうです。 案外、こんなものかも知れません。 これらの話から正則は分かりやすくて面白い人物だと思いました。 家康はこのような部将も動かす器量を持っていたということです。 しかし、家康は戦上手では秀吉には敵わなかったと思います。 秀吉の存命中は目立った対抗を家康はしていません。 7.家康と三成 徳川家康にはこうして私なりに彼らが生きた時代や周囲の人物や反感を抱いた人物等から察すると、関ケ原の戦いは理屈はどうであれ、台頭して来た家康に対する石田三成の私的戦いに近いと感じます・・・ 積極的に家康を叩こうと思った西軍の部将は案外、少なかったと思います。 しかし、三成以外の諸将も家康のことを決して全面的に認めていた訳ではなく、家康にはもう抗しきれない強さを感じていたと思います。 前田利家亡きあと、残った大老の中で家康は筆頭大老だったことは確かです。 石田三成は頭が切れますが、部将達からは口先の達者な無礼な奴として映ったと思います。 豊臣秀吉の死後、家康は一歩一歩、確実に、天下取りに向けて動き始めたことは間違いありません。

家康はよく世間で「タヌキじじい」と言われますが、私は妙に合っているなと思いますし、嫌いでもありません。 タヌキは愛嬌がありますし、体つきもまん丸くてかわいい印象もあります。 関ケ原の戦いを調べていると、そういったどこか憎めない気持ちが大きくなります。 家康は永い歳月をかけて天下人になれたのですが、それまでの天下取りとは違った志を持っていた部将だと思います。 口先三寸で人を騙して姑息なやり方で、タイミングを見計らってのし上がって来たように言われますが、私には情けある思慮深い、人を引き付ける魅力ある人物に感じられます。 妙に憎めないのです・・・

例えば、英雄色を好むと昔は言われますが、豊臣秀吉などは人妻に目を付けたりと女たらしで辛辣ですし、家康はどこか堂々としていてユーモラスな感じさえします。 家康には側室も多く、子供は11男5女がいましたが、それ以外に記録も残っているそうで、養子縁組も含めたら38人の子供がいたと言われています・・・

当時は子孫を残すことが部将にとっては大きな役割でしたし、これはこれで大変だったろうと思います。 生まれて間もなく亡くなる子や、青年前に病気等で亡くなる子、人質に取られる子、政略結婚に出される子、親の味方になって一緒に戦う子など幾らいても困ることはなかったと思います。 下世話な話ですが、子供の名前も時には間違えてしまうこともあったのではないかと思います。 それに子供は成長していく過程で名字や名前が武家では変わりますし、養子縁組などしたらもっとややこしい関係にもなります。 勢力拡大で忙しい中、子供もこんなに多くては、日常生活も今の親より複雑で大変だったと思います。

私が家康の魅力を感じたのは、叱るよりも褒めることが上手だったのではないかと考えるようになってからです。 秀吉は逆鱗に触れたら、養子でも親戚でも一族郎党まで根絶やしにする冷酷さや欲深さを持っています。 例えば、千利休を殺したり、甥の豊臣秀次一族を皆殺にしたり、朝鮮や明を一方的に攻めました・・・。 こういった話は家康からは聞きません。 むしろ長男だった家督を継ぐべき徳川信康を織田信長の命によって切腹させられています。 自分の主君であり、兄のような存在でもあった信長よりの命です。 気持ちは複雑だっただろうと思います・・・

苦労したというか、腹が据わったというか、今でいう仕事は仕事、プライベートはプライベートといった側面も持ち合わせていたのではないでしょうか?・・・ それから何と言っても急いで事を構えないタイプで、鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギスは成程なあと思います。 人生からの学びの多かった人だと思います。 現代なら大企業を創業から作り上げるような人ではなかったかと思います。

幕府として国を治める諸制度を考えた後は、さっさと駿府に引き籠り、仕事は息子等へ任すなどはなかなか普通に出来ることではありません。 現代に通じる才があると思います。 機を観るに鋭く、人を動かすに懐深く、結果については厳しくの中に寛容もあり、人に接するに親しみ易く、指示するより先にどう思うかな?と聞くなど、人育ての上手いリーダーを連想させます。 どこかに居そうで、なかなかいないタイプです。

今回、東軍の陣地跡を歩いていて意外に感じたことの一つに、この戦さは情報戦でもあったのではbないかと思ったことです。 次が決断の速さ その次が行動の早さ 最後に人の情けです これらは今でも通じる話です。 それらを家康は持っていたと思いました。 点在している東軍の陣地を観て回りながらそのように感じました。 西軍に比べはるかに広いのです・・・

8.東軍の勝因 何と言っても徳川家康という存在です。 鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギスの精神ではありませんが、少なくとも癇癪持ちで一気に気持ちが激すとかの話は聞きません。 それどころか女性に甘く、優しく、側室も多い。 血液型はA型ではないでしょうか?・・・ ちなみに家康の血液型は今のところ分かっていないそうです。 2代目秀忠はO型だそうです。 血判や骨や遺髪があれば、現代はDNA判定で分かるそうです 家康は久能山に棺が収められたままだから分からないそうです。 健康に気を遣い、長生きを心がけていたようです。 子供も多く、正に子孫繁栄を地で行っています・・・ 焦らずにじっくりと確実に目標を実現していくタイプで、豊臣秀吉が殆ど作り上げた天下を完成させられないままに亡くなったのとは対照的です。 後継者もいて、人材もいて、後は仕組みや制度作りが待っている訳で、その前の最後の大仕事が政権奪取です。 いわばクーデターです。 現政権側が人望のない石田三成で、家康が勢いのある売出し中の新進気鋭の出世頭です。 これはもう戦う前から西軍が不利かなと思う訳です。

しかし、家康にも予想外の事がありました。 関ケ原の戦いに向けて家康が預けた家臣団を引き連れ、後継者として考えていた秀忠軍3万8千名が関ヶ原に到着していないのです。 信州上田で真田幸村と昌幸親子に翻弄され、家康に指示された集合日に間に合いませんでした。 それでも東軍は関ヶ原で勝ちました。 また、陣型も西軍は丘陵地を後ろにした鶴翼の陣型で、関ケ原へ夜を徹して駆け付けた東軍は平地を後ろにした魚鱗の陣型で、兵員数もほぼ同数で普通なら西軍の勝ちなのですが、そこへ天の利というものも働き、これが東軍へ味方したのです。 ここうで言う天の利とは人による利です。 それは動かざる利と寝返る利です。

動かざる利は西軍の約3割が戦っているように思えません。 立場上で参戦しただけの感じです。例えば、小早川秀秋やその備えにいた赤座直保等は戦さ中に寝返り、毛利秀元や長束正家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親など2万近い兵が吉川広家という内通者がいて、絶好の陣場所から参戦出来ていません。 こうなると、西軍は実際の兵力の多くが役割を果たしていないばかりか、東軍への寝返りも出て東軍が事実上の比率が増えています。 戦う前から勝敗はほぼ明らかで、実際には戦場で家康はその実行タイミングが今か今かと苛立っていただけだと思います。 一方の西軍は現政権側ですが、積極的参加者が少なく、勢力拡大しつつある東軍に対して押されています。 勝つためにはタイミングと事前準備と友軍が不可欠です。

9.家康という人間 ここで、徳川家康という人間を少し解剖してみたい というのは、家康は武勇に部将として優れていたのは違いないが、天才的な才能を持っていたとは思いません。 ただ、優れた部下と人の意見をよく聞くという点は優れています。 例えば、関ケ原の戦いの後、譜代の家臣に誰が家康の後任に相応しいかを聞いたことがありますが、本多正信、井伊直政、本多忠勝、大久保忠隣からの推薦者はバラバラで、その中で忠隣だけが秀忠を薦めました。 その理由は、「戦いの世が終われば、天下泰平の世となり、武力よりも天下人の性格や治世の能力が重要になります」と、秀忠を推薦する理由を述べたからだと言われており、正にその言葉が正しかったのです。 家康は創業者なので全てを自分で決めますが、秀忠は二代目で半分は自分で決めて残り半分は周囲に任せる、三代目の家光は全部を周囲に任せたと言われています。 この三代は正に言い当てていると私も思います。今の世にも通じます。 では、家康の優れた才能を更に考えてみたい。

➀戦いの能力 豊臣秀吉は幾度となく、戦国部将との戦いに知恵や才覚を発揮し、幾多の戦いに勝った話は多い。 秀吉の仕えた織田信長は天才的な才能や武勇では敵う相手がいません。 桶狭間、長篠の戦い、比叡山僧兵との戦いなどその例は数限りない。 自軍の何倍もいる敵に勝利した話も多い。 安土城など当時の部将の能力を超えた奇才を持っています。 特に天才的な戦術は余人の域を超えています。 それだけに時には狂気的な行動に走ることもありました。 信長が戦った相手であり、信長の妹の夫である浅井長政や浅井義景などのしゃれこうべに金箔を張り、酒宴を催したことなど常人の域を超えて狂気だと言われています。

家康はその信長に従って生き抜いて来れたのは、やはり何らかの能力があったからだと思います。 この時代に戦さで負けるということは天下人にはなれないことを意味しており、至極、当然の生き方だったのかも知れません。 ただ、家康も三方ヶ原の戦いでは功を焦り、武田信玄の誘いにまんまと引っ掛かり大敗したことは殊に有名な話です。 それも信長から厳命された「動くなよ」という命令を破ってですから、普段の信長なら激高してどんな始末を受けたか分かりません。 信長は家康の兄貴分的な存在であり、決して武勇で可愛がられていたようには思えないのです。 また信長は秀吉ほどの戦う才能はなかったと見抜いていたと思います。 現に、秀吉子飼いの部将はいずれも戦場で名を挙げて大名となり、性格も異なれば、荒くれ者もいて、いずれも戦いで強い部将が多い。 しかし、家康配下の直属部将となると、徳川四天王と呼ばれた部将位で、秀吉子飼いの部将よりは少なく武勇では劣るように思います。

➁人徳や才量 秀吉は武力に秀でた荒くれ部将達をまとめる力量には優れていますが、知力を備えた優れ者を抱える力量は家康の方が上です。 特に、西軍には石田三成という知力に優れた部将はいましたが、三成は人徳に欠けています。 あれだけの豊臣方の部将達が東軍に味方したのはこの為です。 豊臣家に弓は引かなくとも、三成憎しと思っていた部将は多い。 現に、西軍の島津義弘や島津貴久もそうですし、礼を逸する態度に腹が立っていました。 三成の部下の島左近や盟友の大谷吉継は例外的で、三成の蜂起を戒めていた無二の親友と部下です。

家康の凄さは今流で言えば、マイナスもプラスに出来る才量を持っていたことです。 幼少から人質に出され、我慢すること、耐えること、時を待つこと、人の才を見限らないこと、衆知を集めて考えること、相手の身になって思う事など、大きな組織のリーダーたる素質を備えています。 例えば、豊臣家を滅亡させておきながら、最後まで秀吉の正室だった北政所と呼ばれた高台院とは親交があり、こういった関係は当時にはなかなか珍しいことだったと思います。 高台院も夫の秀吉から離縁されるようなこともなく、秀吉の女癖に憤ることや嫉妬に狂うこともなく、不思議な距離感があり、家康との親密さすら感じます。 秀吉と高台院は当時としては珍しい恋愛結婚でしたので、現代の価値観でも不思議な感覚がします・・・

最も高台院らしいのは、普通なら夫が築き上げた天下人の地位や財産や名誉を剥奪した相手の家康を憎む筈なのに、どんな心境だったのでしょうか?・・・そんな話は聞きません。 結構、淡々とした、肝の据わった器の大きな女性だったと思います。 家康と親交がありながら、秀吉にも嫌われていないとなると、これはもう男から観れば俗にいう理想の女人です。 また、秀吉子飼いの部将達にも慕われていたことから、普通の女性にはない不思議な魅力があったことも間違いありません。 ひょっとしたら秀吉以上の才女かも知れません。

➂部下 家康には多くの部将が味方としていましたが、三成にはそれほどはいなかったと思います。 その証拠に関ケ原の戦いに率先して参加した部将は限られています。 西軍に参加した部将の中には仕方なく参加した、積極的に戦わないような部将が多かったと思います。 三成は才知を重んじたので、武勇に優れた武将がそれほど多くはありません。 徳川家康軍団が上杉景勝を討つべく会津に向かった隙に、家康に対して反旗を挙げましたが、これも留守を狙ったもので才知優先です。 しかし、戦さの分析や詰めが甘く、やや勢いや流れに乗ったような側面を感じます。 歳月をかけ準備万端と策を練り必ず勝つという目算があったようには思いません。 それだけ焦っていたのではないでしょうか・・・ 一方の家康はそれを待っていたかのように、上杉景勝の討伐から引き返し、三成と勝負を付けるべく西へ急いで引き返して来ます。 引き返す前に小山評定をいう有名な会議を開きますが、一緒にいた諸将に三成の蜂起の話を行いますが、そこで諸将より「お味方申す!」という言葉を次々に受け、してやったりと内心は思ったのではないでしょうか?・・・ いよいよ来る時が来たと感じた筈です。 私はこの時点で家康側の勝ちは決まったと思います。それが私の関ヶ原論です。 実に巧妙で巧い。 上杉景勝の上洛など放置して三成に任せても言い訳です。 これが永年生き抜いて来た知恵者で強者だと思います。

いずれにせよ、三成には部将が少ないという事は、西軍諸将は率先して味方しているのではなく、立場上の利害関係で味方している部将が多く、状況次第で寝返る部将もいるということです。 戦さにはタイミングも重要な必勝の要因ですが、三成には時間をかけて諸将を自軍の味方につける準備や忍耐が欠けています。 やはり、戦い慣れていないことや武将のような経験が不足していたと思います。 ましてや自軍の場所や、気になっていた小早川秀秋の陣との距離や牽制策など死を賭けて戦ったようには思えません。 たった一日、それも6時間の短さで決した天下分け目の戦さになったのは本人も意外だったと思います・・・ 私は無謀な戦さだったと考えています。

➃適材適所 諸将の配置についてですが、家康は桃配山の西側平地に本陣を置き、多くの部将は自分より前の西側に西軍と対峙する形で点在させて配置しました。 正に魚鱗の形です。何重にも重なって敵陣に向かう陣型です。 三成はそれに対して鶴の大きな羽根で囲むような鶴翼の陣です。 この陣型では三成の西軍が有利です。

これだけでも有利なのに、更に家康本陣の後方に毛利勢がいたのです。 その重要な場所に毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親の1万8千名程です。 つまり、陣を置いた南宮山から一挙に北側へ駆け下り、麓で横展開している東軍の池田輝政、浅野行長、山内一豊の1万3千名と戦っていた筈なのです。 山から下って来るのと下で待ち受けるのは、圧倒的に山側が有利です。 全てに加速がつきますし、野戦なので全て上から丸見えです。 この局面では東軍は横方向に展開しているので、厚みのない隊列となります。 また、西軍の一部が家康の本陣の背後から攻撃出来すれば、家康といえども正面と背後から挟まれ、南側は桃配山もあり、北側も狭く、結局は南の伊勢方面へ向かうしかなかった筈です。 そうなる前に石田三成本隊と最終決戦になっていたかも知れません。 幾ら家康の本陣に3万人いようが、狭い通路の中に挟まれたら東西からの攻めには弱くなります。

それだけ吉川広家の役割は大きかったのです。 ですから、戦後処理で出した家康の評価案は当初、毛利藩は改易(取り潰し)とし、広家には毛利家の所領と36万石だったのです。 さすがにこれでは毛利家を潰すので、広家は家康に再度願い入れ、毛利は何とか残されたのです。 もし家康が背後から攻められていたら、その様子は笹尾山の石田三成からも見え、西軍の士気も大いに上がり、小早川秀秋の裏切り自体もなかったかも知れず、裏切りによるプラスとマイナスの逆転だけではなく、戦力差が逆になり、西軍有利で勝っていたかも知れないのです。

➄時間 天下分け目の決戦としては戦闘時間が短すぎます。 野戦とはいいながらあっという間の6時間です。 肩透かしと言われても仕方ない所要時間です。 所詮、三成と家康は人物の大きさも違うという証拠です。 三成が勝つためには時間軸を3,4年は戻してやり直さなければ難しいと思います。 10.徳川体制の凄さ さて、話は戦さ後の話に飛びますが、徳川政権はそれから260年も続きますが、この政権を長続きする為の具体策がそれ以前のどの政権よりもしっかりと考えられ、がっしりと全国の大名に向けて実行されたので、徳川政権はこれほど永く存続したのです。 これからその仕組みの話をしたいと思います。 これらも元はと言えば、家康の考えが生きていると思います。

家康は、江戸を徳川政権の本拠地と定め、家康、秀忠、家光へと長期政権継続を念頭に入れた仕組み作りの方針を出したと思います。 この時代、全国の藩数が250はあったと思います。 大名とは一万石以上なので、それ程のp数があった訳です。 この大名に対し、徳川幕府は実に実効的な政策を次々に打ち立てていきます。 このような具体的政策はそれ以前の武家政権にはなく、しかもどの策も効き目があり、大名にとっては厳しいものばかりです。 この構想や概念やアイデアは実際に経験して日頃から考えていたものだと思います。 決して二代目、三代目からは生まれない独創的なものです。 自分でゼロから考えるとなると簡単には出て来ない具体策ばかりです。

家康にはどこか商人的な才覚も感じます。 小早川秀秋がなかなか裏切り行動を取らないので、松尾山へ向かって鉄砲を撃たせた逸話なども真実かも知れません。 家康は満を持しての最後の賭けだったのでしょうが、見事に賭けに勝ちました。 こういった細かい対応が普通の大名では出来ないように思います。 では、徳川幕府の全国の大名への対策を整理してみます。

➀配置 親藩、譜代、外様とは分かりやすい区別を考え、それに基づき徳川家の親戚や元からの家来衆を親藩とし、関ケ原の戦い前に味方になった大名を譜代とし、最後まで味方にならなかった大名を外様として、その配置を工夫するとは具体的で論理的な配置です。 徳川幕府に対して危険度を考慮した地域割です。 陣を考えるのと同じ発想です。リスクを避けています。 特に問題となるのが外様大名ですが、実は関ケ原の戦さ時点で味方になった大名も外様扱いになっています。 この大名達の配置がそのまま徳川幕府の意識を表わしています。 大雑把に言うと親藩は水戸、尾張、紀州の親戚三藩で、譜代は各地方の要所要所に配置された外様の監視役で松平姓がそうです。 家康の信が篤かった部将は小は旗本へ、大は大名となりました。 最後が、遠方にあっていざ事が起こる可能性のある外様で、長州や薩摩や上杉など名の知れた雄藩もあります。

上杉謙信公を始祖とする上杉藩などはこの典型で、武士の数はそのまま大藩並みで、何回かの減封と領地替えで藩財政は逼迫していました。 商人からも借財をして多額の返済も出来ないばかりか、中には踏み倒すケースすらあったようです。 これを改革したのが、あの有名な上杉鷹山公だった訳です。 こういった種類分けをし、領地を決めた幕府はそれまでの日本にはいません。 その上、各藩に目を光らせ、何かあれば藩の領地を替えさせたり没収するのです。

➁武力を減らす 武力を持つと良からぬことが起きる可能性が高くなるので、まずは武器類の勝手な備えを禁じます。 実際に戦さもなくなり、無用な武器類は謀反に繋がる恐れもあるので厳しくチェックされます。

また、武力を強くしようとすると、お金も必要になります。 そこで各藩の財力を削減する策も考え出したのです。 最も効果的なのが減封です。 石高をいろいろ理由を付けては減らすのです。 藩の武士の数が減らない限り、この減封はとてもよく効きます。 武士の収入が減っていくことになるからです。 何だかんだと規則破りを理由に、領地を替えて石高を減らすことをやります。 これでは藩内に備蓄など出来る筈もありません。 上杉藩などこのパターンです・・・

対象となる理由はいろいろあります。 幕府に内緒で武器を揃えたり変えたりしてもいけませんし、居城の修復や増築も幕府の許可が必要になりますし、黙ってやると厳しい罰則が待ち受けています。 あの関ヶ原で大活躍した福島正則も居城の広島城を黙って何回か修復したので、改易(藩の取り潰し)になっています。 また、城は一国には一城しか許されません。

➂婚姻の制限 大名は自由に他藩と姻戚関係を結ぶことを禁じられています。 幕府への伺いが必要で不審があれば、調べられて罰せられることもあります。 この婚姻は家康や秀吉などが散々やって来た常套手段であり、姻戚関係で敵味方の識別や裏切りを抑制することも出来ます。 こんな所にも活用されているのです。

➃蓄財の放出 徳川幕府は大名に蓄財をさせないように、公的事業に大名を利用し費用を負担させました。 例えば薩摩藩には、宝暦治水事件というものがあります。 幕府の命令で強要された堤防工事で、薩摩とは何の関係もない木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業に借り出され、工事中に薩摩藩士51名が自害し、33名が病死し、工事完了後には薩摩藩総指揮の家老であった平田靱負もその責任を取って、藩に謝罪する為に自害した出来事です。 度重なる川の氾濫での難工事の連続で、携わった薩摩藩士は大変な苦労をしました・・・ この政策は徳川幕府が大名に工事を命じ、費用も捻出させた事件です。 地元鹿児島には顕彰碑が建てられ、私が小さい頃は何でそんな遠い所へ堤防工事なんかに行かされたのか不思議に思ったものです。

こういった強制的な工事への負担なども江戸幕府への不満も薩摩には蓄積されていったのではないでしょうか?・・・ 赤穂浪士なども元を正せば、吉良上野介の賄賂要求の話からと言われますが、元はと言えば大名へ京都からの使者に対する饗応費を大名に負担させていたことが真の原因だと思います。 もし大名が嫌がって拒否したら減封や改易や領地替になります。 藩にお金を使わせる生かさず殺さずのやり方です。

➄三勤交代 三代将軍の徳川家光によって制度化されたもので、一年置きに藩主は江戸と領地を行き来させ、正室と世継ぎは江戸から離れることを禁ずる制度です。 言わば、体裁のいい人質で戦国時代と同じやり方です。 但し、正室や世継ぎ以外はお構いなしです。 これをやられると、遠方の大藩では費用負担が馬鹿になりません。 藩費は次第に減っていき、商人から借財していた大名もいます。

私の郷里の薩摩藩などは参勤交代では片道だけで2ケ月前後もかかり、大名行列の人数も千人以上で、費用は片道で1万数千両もかかったそうです。往復で3万両です。 10年も往復すれば5回も参勤交代はあるので、15万両という莫大な費用が掛かっていたことになります。 お金がないと参勤交代が出来なくなり、幕府から咎めやお家取り潰しなどもあるので、商人から借金して返済しないようなことを強要した藩などもあったそうです。 この薩摩藩の経費は他藩の比ではありません。 江戸から遠いわ、大藩で供の数も多く大変だったと思います。 徳川幕府へ対する不満不平はこんな面からもあったのではないでしょうか?・・・

➅土地売買の制限 具体的には田畑永代売買禁止令と呼ばれるもので、田畑の売買を禁止する法律です。 寛永20年(1642年)に発令されていますが、飢饉による百姓の没落を防ぐ目的で発布されたとされています。 苦しくなると田畑を売ってお金を手に入れますが、土地がないので更に貧乏に陥る連鎖を防ぐ為です。 当時の日本は農耕が国の基本なので勝手に土地の売買を禁じた訳です。 これも徳川幕府の基盤崩壊を防ぐ政策の一つです。

11.最後に 420年前の新暦10月21日に岐阜県不破郡関ケ原にて、日本中の主だった部将達が東西に分かれ、ほぼ互角に匹敵する兵数で天下を二分し、どちらかが生き残り、どちら負けて賊軍となる生死を賭けた戦いを繰り広げたのです。 賊軍となった部将の中には捕らえられ、首をはねられ、晒し首となり生涯を終えた部将もいます。 悔いはあったでしょうが戦さは結果が全てです。 こんな賊軍となった部将の中に強く心に残った一人の若い部将がいます・・・

その部将の名は宇喜多秀家です・・・ 秀家は秀吉の養子となり、可愛いがられて育っていきます。 秀吉はその秀家を二十代で五大老の一人に選びます。 このことからも秀吉のお気に入りだったことが分かります・・・

この五大老の中に秀吉が出世する前に隣に住んでいて、仲の良かった友人がいます。 その友達には子供がいて、子供のいなかった秀吉夫婦に自分の娘を養女として差し出したのです。 その人物の名は前田利家と言います。 同じ織田信長に仕えた家来仲間でした・・・ この利家こそ加賀100万石の藩祖です。

秀吉と利家は生涯を通じて仲の良い関係でもありました。 秀吉が死んでから翌年には利家も亡くなりました。 何で翌年なのかと思ってしまいます・・・

幼い頃に秀吉の養女になったその女の子は秀吉夫婦に特に可愛がられます。 その子の名は成長して豪姫と呼ばれます。 秀吉は宇喜多秀家と豪姫を夫婦にします。 その秀家も秀吉の養子で幼い頃から目をかけていました。

最初は幸せな二人でしたが、関ケ原の戦いで敗れた秀家は薩摩に2年程逃れ、やがて幕府の詮索が厳しくなり徳川幕府に捕まり、八丈島へ豪姫が生んだ息子二人や少数の従者と共に遠島になります。 やがて、前田家は幕府へ働きかけて赦免を申し入れ、幕府は秀家らに八丈島から戻って良いとの許可を伝えますが、秀家はその申し出を断ります。 このあたりが普通じゃない!・・・・

罪は罪として戻らず、一生をその八丈島で生きて行きます・・・ 息子二人は現地で妻を娶り、やがて島で亡くなります。 血だけは絶やさない様にと今も島には血縁の方が生きているそうです。 しかし、秀家自身は八丈島で50年以上も生き続けます。 現地で妻も娶らずに生涯を終えるのです。 享年83歳・・・

そんな秀家と豪姫の哀しい秘話に想いを馳せ、地元の人達が島の南西部に秀家と豪姫の座像を作りました。 時を隔てること400年以上も後の話です。 二人はこれでようやく再会を果たせたのです・・・

秀家の肖像画を見るとすぐに分かりますが、大変な二枚目です。 正室の豪姫は毎日毎日、東の方を向いて夫や息子達の無事を祈っていたと云われます。 そうです。東とは八丈島の方向なのです。

戦国の世にこのような哀しい夫婦愛があったとは胸が痛みます・・・ 秀吉からみればお気に入りの二人です。 二人とも我が子のようなものです。 戦国に生まれて、哀しいけれど幸せな二人だったと思います。

もう一人、秀吉の養子となり、全く違った人生になった人物がいます。 小早川秀秋です。 19歳で関ケ原に出陣し、西軍を裏切り、東軍へ寝返り、家康から恩賞を貰いました。 岡山藩主として52万石の藩主にもなりました。 しかし、西軍を裏切った怨念は夜毎襲ってきて、2年後の21歳の若さで精神錯乱となって死んでしまいます。

奇妙なのはその岡山藩の前藩主は何と宇喜多秀家だったのです。 関ケ原にて秀家が負けた原因も真横から1万5千の兵で裏切って攻め込んだからです。 秀秋が裏切るまでは、秀家は東軍の福島正則や井伊直政や家康の4男である松平忠吉らと戦っていた勇者だったのです・・・ 私はこの宇喜多秀家のことが心に染み入って来るのです。 秀家の陣跡は関ヶ原でも奥まったうす暗い林の中にあります。 哀しいかな・・・ ・・・・・・・・

これにて、昨年と今年に亘った「関ヶ原の戦い」は終わりとします。 有難うございました。

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