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面白い話 第265号

今回紹介する話は話の紹介者ご本人の信用にお任せして紹介していますので、その点

をまずはご承知下さい。殆どがyou-tubeでの対談話だったり、何かの掲載情報だった

り、或いは過去に私が読んだ本からの情報です。

有名人についての視点を変えた、面白い話を紹介します。


その1.長嶋巨人終身監督

 私の大好きな人であり、私と同年代の子供時代にはこの人の話は避けて通れません。

 何故かと言うと、遊びと言えばもっぱら草野球ばかりで、それも地方に住んでいた

 ので野球放送はもっぱら巨人中心で、他のチームなど知る由もなかったことが一因

 だと思います。

 その頃に使っていたグローブは安物で、ボールは軟式球でバットは手作りのものや

 買ったものでも折れた部分を補強したものなどを使っていました。場所はもっぱら

 近くの空き地で、それも道路や少しでも広い場所なら勝手にグランドとして使って

 、毎日、日が暮れるまで遊んでいました・・・今でもその頃の光景を思い出します。

 当時、長嶋は多くの子供達にとってヒーローでした。サンサンサン、ナガシマサン

 と皆で歌ったりしていました。今では考えられない程のヒーローでした。

 

 最近、見ていたyou-tubeで元巨人のピッチャーだった江川卓さんが長嶋さんの話を

 回想しているのを見つけ、話が盛り過ぎじゃないかという程に楽しかったので紹介

 します。実はこの江川さんは凄いピッチャーだったんです!高校野球で打てる球じ

 ゃないと言われる程、ストレートが手元でホップするほどだったそうです。確かに

 宮崎のキャンプで投げるのを近くで見たことがありますが、球がスーウッと音を立

 てていたのには本当に驚きました・・・

 また、元ヤクルトの監督だった野村克也さんが現役キャッチャー時代に、バッター

 ボックスに立つ相手チームの選手に囁くような言葉を掛けて、バッターの集中力を

 乱す話が有名でしたが、こんな囁きが全く通じなかったのが長嶋さんだったそうで

 す。普通なら気になるような言葉でも長嶋さんは全く気にしていない人だったそう

 です。恐らく集中して自分の世界に入っていて周囲のことが全く気にならなくなる

 のだろうと思います。

 

 また、今は横浜ベイスターズと球団名が変わった昔の大洋ホエールズのピッチャー

 だった平松政次さんは「カミナリシュート」で一世を風靡した人ですが、このシュ

 ートとは右バッターの胸元食い込んで来るシュートで、なかなか打てる球じゃなか

 ったそうです。その平松さんが長嶋さんへシュートを投げた時、信じられない反応

 を長嶋さんは取ったと江川さんは話していました・・・

 それは、バッターボックスへカミナリシュートが飛んで来るように立ち位置を変え

 てカミナリシュートを投げるように誘導したそうです。案の定、平松さんはカミソ

 リシュートを投げたのですが、その瞬間、信じられない行動を長嶋さんが取ったの

 でした。

 何と、瞬間的に持っていたバットを下へ少しずらしたそうです。こんなことは長嶋

 さん以外には思いつかないし、まず出来ない発想と行動だと話していました。

 長嶋さんは常人とは異なる神経のように言われていますが、野球にのめり込んで自

 分だけの世界に入っているのがよく分かります。

 こんなことは余人には出来ないことで、こういった話もチームを問わず長嶋さんが

 愛される由縁だと思います。ホームランを打って一塁ベースを踏まないでホームへ

 返り、アウトになるなんて、こんなバカみたいな話は聞いたこともありません。

 他にも敬遠の時にバットを持たずに打席に入った話などもあり、バットを打たない

 のにフォアボールなんて滑稽過ぎます。

 もっと凄い話として、息子の一茂さんが子供時代に長嶋さんと一緒に車で後楽園球

 場に連れて行かれた時に帰りに置き忘れて自宅へ戻り、奥さんから一茂は?と聞か

 れて思い出した話など有名です。この話は一茂さん自身も憶えていて、それ以来、

 後楽園球場のうす暗いバックヤードへ行くと、当時の残された恐怖が蘇るそうです。


 他にも巨人に居たピッチャーの槙原寛己氏が話していましたが、長嶋さんは常人と

 違ってゴルフへ行ってもスコアブックを持たずにプレーするそうです。それでいて

 自分のホール毎のスコアや、一緒に回った人のコース別スコアやプレイも憶えてい

 たそうです。槇原さん曰く、記憶力が常人と違ってもの凄いと話していました。

 圧巻はクラブを振り上げて、振り上げた時にクラブ自体を半転回させて、逆の面で

 打った時は驚くやら不思議過ぎて今でも強く記憶に残っているそうです。実に不思

 議な長嶋さんです・・・


 最後に一番有名ではないかという話を紹介します。長嶋監督の秘蔵っ子だった松井

 選手がニューヨークヤンキースへ移籍し、調子が落ちた時に長嶋さんへ電話をした

 そうです。そうしたらバットを振ってみなさいと言われ、その音を聞きながら長嶋

 さんは、そう、それだ!と話したそうです。音で調子が分かるなど不思議な話だと

 思いませんか?・・指導する方もバットを振る方も余人には理解出来ない話です。

 他にも楽しい、面白い話がいっぱいあり、是非、一度、you-tubeをご覧になって下

 さい。必ず笑いますから!!・・・

 記録も凄いですが、それ以上に記憶に残るスーパースターだったと思います。

 昭和のプロ野球を盛り上げた第一人者であったことは間違いありません。

 今でもまだまだ国民に人気があるのはそういう人だからです。

 機会があればyou-tubeで長嶋さんの話や姿をご覧下さい。本当に笑えますから・・・


その2.西郷隆盛

 幕末から明治初期にかけてのこの偉人の言葉に「命もいらぬ、名もいらぬ、官位も

 金も要らぬという人物は扱いに困るものである。このような手に負えない人物でな

 ければ、困難を共にして国家の大業を成し遂げることはできない」という名言があ

 ります。

 この西郷さんに魅力を感じていた人の一人が幕臣だった勝海舟です。代々、徳川家

 の御家人の家系ながら、貧乏で父親の勝小吉は博打場の用心棒で稼いでいた人です。

 その縁からでしょうか、当時の江戸の大親分だった新門辰五郎と勝海舟は面識を得

 ていたと思います。西郷との江戸城無血開城が失敗に終わった時には江戸市中に火

 をかけて江戸を火で焼き尽くし、江戸庶民も多くを船に乗せて逃げる手筈を備えて

 いた話には江戸の大親分の支援があったからなのです。

 官軍と幕軍に分かれながら、勝海舟と西郷隆盛は妙に馬が合った人物同士に思いま

 す。駿府に慶喜公に従い引っ込んだ海舟は、何かの折に触れ西郷が生きていれば茶

 飲み話でも出来たものをと西郷を懐かしんでいたそうです。生きていれば西郷と腹

 を割って楽しい話が出来たのに惜しい人材を亡くしたということなのでしょうか。

 

 この海舟の弟子こそ坂本龍馬です。龍馬が最初に海舟に会った時の目的は、海舟を

 切ることが目的だったのです。龍馬は当時は攘夷思想で、勝邸を訪れたのはこの為

 でした。海舟も龍馬も剣の使い手ですので、海舟は龍馬が来た際にすぐに自分を殺

 切りに来たなと察したそうです。

 しかし海舟は、「まあ、切るのは話を聞いてからで良いではないか」と諭し、世界

 の情勢や日本の現状を竜馬へ語り、竜馬は初めて聞く世界の話に驚き、目から鱗で

 海舟との話が終わった時には海舟へ向かって、弟子にして下さいと懇願し、その時

 から龍馬の恩師になった訳です。

 この竜馬がやがて西郷に会ったのは海舟の勧めです。天下にそれほど名が売れてい

 ないが、やがて必ず世に出て来る人物が薩摩にいる西郷だと告げ、今の内に会って

 おきなさいと話したそうです。

 龍馬は後日、西郷に会い、後で海舟に西郷の印象を聞かれ、「西郷という人物はよ

 く分かりません。馬鹿なら大馬鹿で賢いなら凄く賢い人物ではないでしょうか・・

 よくは分からない人物ですが、例えて言うと、小さく叩けば小さく鳴り大きく叩け

 ば大きく響く鐘のような人物でしょうか・・・」と話したそうです。

 それを聞いた海舟は、流石に竜馬は人を観る目があると大いに喜んだそうです。  

 流石に海舟には眼力があります。

 龍馬は京都で幕府から狙われた際、妻の「おりょう」と共に薩摩へ逃れ、温泉に入

 ったりして日本で初めてだと言われる新婚旅行をした話は有名です。これも西郷と

 の縁があってこその話です。

 結局、人の縁は人を介してしか拡がりません。これはドライに理性的に考えがちな

 現代でも変わらない話だと思います。

 人が人を呼ぶわけです。現代より情報手段が少なく時間もかかる江戸後期だったに

 も拘わらず、昔の人達はよく歩き、よく筆をしたため、よく人に会っていたと思い

 ます。むしろ、便利になった現代の方が人との接触は減っているように感じます。


 話は変わりますが、ここで私の好きな西郷隆盛の逸話を2つ紹介します。

 一つは明治になって西郷は参議という明治政府の要職に就きます。参議が集まって

 時には明治天皇も臨席して開く会議に定刻になっても西郷が現れません。そこで参

 議の木戸孝允が使いを西郷邸まで寄こして急ぐように催促に行かせます。帰って来

 た使いは西郷の言葉を伝えます。その言葉は驚くほど凄い話なのです。「着替えが

 なくて今、干してあるので、それが乾いたら行きますから」という返事です。

 真面目に考えると人を愚弄しているように思いますが、私には西郷の人物をよく表

 している逸話だと楽しくさえなります。

 もう一つは明治天皇と西郷の関係です。西郷は相撲が好きで、明治天皇とも相撲を

 取ったことがあります。他の人達は相手が天皇ですので、自分が負けるのが当然だ

 と考えていたのですが、西郷は天皇を強く育てなければならないと考えていたので

 負けるどころか投げ飛ばしたそうです。周囲はハラハラしたそうですが、明治天皇

 は手加減しない、そんな西郷が好きだったようです。

 西南の役で朝敵となり、その後もその汚名は消えませんでした。天皇はそんな西郷

 が不憫だったようです。命も惜しまずに日本や人々の為に一身に引き受けて死んで

 いった西郷を複雑な想いで懐かしんでいたようです。正に、新時代の最後の矛盾し

 た不満を自らの命で代替したと言えます。征韓論など本気に考える人物にはとても

 思えないからです。

 勝てば官軍と言いますが、良い事しか言わないのが勝ち残った人達ではないでしょ

 うか・・・西郷の人間像は今でも庄内へ行けば南洲翁語録が残されています。これ

 が何を物語っているかです。


その3.近藤勇

 言わずと知れた新選組長です。東京の西部にあたる日野市付近だったと思いますが

(記憶が怪しいので)、天然理心流の第4代宗家で、後に京へ上がり京都守護職配下

 の新選組組長を務めた人物です。近藤は幕府方なので幕府を倒そうと企てる諸藩の

 脱藩浪士や藩士にとっては恨み重なる相手であり、池田屋の襲撃事件など有名です。

 世の中は当初は攘夷派、次が勤皇派へ変わり、やがて開国派となって行きます。

 その中で新選組も時代に翻弄されて行きます。

 その新選組の近藤隊長には酒宴が盛り上がると、ある芸をして人々を驚かせたそう

 です。それは手の拳を口の中に入れるという芸です。私も本当にそんなことが出来

 るのか?と、試したことがありますが、どこをどう動かそうが、口の中に拳が入る

 ようなものではありませんでした・・・

 一途な堅物に思われがちな近藤ですが、私は結構、情け深い人物ではなかったかと

 思っています。何か証拠がある訳ではないですが、体の弱かった沖田総司に対する

 思いやりなど烈士と解釈するだけではない愛情や細やかさを感じるのです。

 やがて、幕府側は官軍に負け続け、次第に東へと下がって行きますが、新選組も幕

 府側ですので次第に敗走していくことになります。近藤勇は流山で捕まり、その後

 板橋の刑場で斬首され、三条河原に晒されました。享年33歳。世が世なれば、活

 かしようもあった人物ではないかと惜しまれますが、余りにも恨みを買い過ぎた点

 が惜しまれます。 


 今回は面白い話と題して書きましたが、最後は複雑な思いでした。

 時代だったという思いが私にはあり、世が世ならばこうはならなかったのではない

 かと思います。田舎でそのまま道場を続けておけば、違った人生になっていた筈だ

 と思います。武士になりたかったのでしょうか?・・・

 今はその人の努力や頑張りでやりたいこと欲しいものも手に入る時代です。

 本当に有難いなと思います。だからこそ、余計に励むことが私達にはあると思いま

 す。

 楽しさの中に絶え間ない努力や辛抱があり、やがてそれが必要とされる時がやって

 来るのは人の人生なのでしょうか?・・

 果てるまで生き続ける。このことは大切な命への恩返しのように思います。

 

   



 




  





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