地下鉄淀屋橋駅から南東へ歩いて2,3分の所に「適塾跡」と呼ばれる旧跡があります。 大阪では有名な旧跡でご存知の方も多いと思います。 現在、そこの管理は大阪大学医学部となっています。 医学部が管理している理由は、そこで当時行われていたことが大阪や日本の医学界を牽引した聖なる場所であり、且つ大学の医学部へと発展して行ったからです 。
その主人公こそ、高名な幕末の蘭学医(オランダ医学)、緒方洪庵その人です。 この地から医学界を超え、明治維新で活躍した逸材が輩出されたことも有名です。 では緒方洪庵なる人物はどんな人だったのか、簡単に辿ってみたいと思います。
洪庵は岡山市の北西部、備中足守藩(2万5千石。豊臣秀吉の妻、北政所の兄である木下家定が初代藩主)に1810年に生まれました。 1863年に江戸で死去しましたので、53歳の一生でした。(私の年齢と同じなのです・・・・) 15歳の時、父の転勤(国許から大坂蔵屋敷留守居役へ)に伴い、大坂(当時の字です)に出て来ます。 その後、17歳で大坂の蘭学医である中天遊の門下生になります。 更に、22歳で江戸に出て坪井信道も学びます。 更にその後、長崎に蘭学修行に出て1838年(洪庵が28歳の時)に大坂に戻ります。 そして、大坂瓦町に初めての医学所「適塾」を開きます。 また、この年に摂津名塩(今の西宮市)の医者、億川百記(確か、当時は漢方医)の長女と結婚します。 やがて、七男・六女をもうけますが、うち四名は幼くして無くなっています。 更に、その7年後に現在の淀屋橋に場所を移し現在に至ります。
適塾という名前は緒方洪庵の号である「滴々斎」から取ったそうで、意味するところは人からあれこれ言われてことをやるのではなく、自分の信じる道を貫き通すという意味だったそうです。その号も中国の書からとったようです。 兎に角、勉強熱心だったことは確かで、その姿勢は適塾そのものにも生きていたようです。 蘭学医になった背景は、洪庵は長男でもなく病弱だった為、武士として生きることよりもっと丈夫になりたい、身体を何とか少しでも治したい、それでも新しい西洋医学でという思いからだったそうです。 洪庵の功績については、私があれこれ言うより専門家に聞いた方が詳しいと思います。 例えば、日本初の体系的な医学入門書である「病学通論」を著したりとか、種痘所を開設したりとか色々あります。 しかし、私達にとってそれ以上に有名なのは教育者としての名声です。 適塾には636名が学びました。 出身地も青森県と沖縄県を除く全国各地です。 入学費や授業料は安く町民や農民なども入塾出来る、当時としては類を見ない医学所でした。(その分、塾の台所は火の車だったようです) 福沢諭吉や大村益次郎はここの出身です。 漫画家の手塚治虫氏の曾おじいさん?もここの出身。(そういえば代々医者の家系です) 医者の跡継ぎだったり、武士だったり、農民だったり、町民だったり・・・様々です。
洪庵が塾で教えていたのは蘭学や医学や医術は勿論のことですが、それ以上に人間としての心構えとか教訓を重要視して指導していたようです。 医者を志す者は名誉や権勢や地位を得ようとしてはならないと戒めています。 このことは最初に挙げる程に大事なことだと重要視しています。 また、塾を巣立って行った全国各地の卒業生へ、その後も変わらずに手紙を書き送ったり、品物まで送ったりしながら、医学の最新情報や親兄弟のこと、心や体への心配や気遣いまで、細かく親身になってやりとりしていたようです。
こんな洪庵に対し敬慕する若者が多かったのも当然のことだと思います。 適塾は単なる医学や和蘭の伝授の場ではなかったのです。 洪庵はやがて、医術も人物も広く知れれる人となり、やがて、幕府に召し出され嫌々ながら将軍の奥医者となります。 しかし、慣れない土地での心労があったのか、江戸に渡った翌年に多量の喀血で急死してしまいます。
こんな人生なのですが、淀屋橋の適塾跡(当時より少し小さい)をご覧になれば、そんな大家族や大勢の学生が、寮みたいに暮らしていたとは信じがたい狭さです・・・ その上、診療所もここに開いており、これはもう寿司詰め状態だったと思います。 2階に当時の学生が暮らしていた大部屋があるのですが、一人につき畳一枚、布団も机もそのスペースに置くしかなかったそうです。 その上、夏は蒸し暑く裸同然の風体で暮らしで蚤やしらみは当たり前だったそうです。 学生に必須のオランダ語辞書はヅーフ辞書と呼ばれ塾に一部しか揃えておらず、何十名もの学生は置かれている小さな部屋の前に順番待ちになったそうです。 この為、真夜中に起きて利用する者もおり、終日、灯りの絶えない部屋だったそうです。
塾では、身分や地位に関係なく実力に応じてクラス分けが行われ、そのクラスで一定期間トップだった者が更に上級のクラスに進級できるシステムでした。 クラスでの授業も誰がどこに当たるか分らないやり方で行われた為、皆、一心不乱に寝食を忘れ予習や復習をしたようです。 何せこの成績で学生の待遇に影響があるのです。 大部屋内の自分の場所も成績が悪いと通路近くになり、踏まれたり、邪魔扱いされたりしたようです。
福沢諭吉が後年になって、こんな話をしています。 「生涯の内であれ程勉強した時期はなかった。 布団などに寝た記憶が殆どない。 机に向かったまま寝て、そのまま起きて、また勉強していた記憶しかない」と・・・ こんな訳で、青春真っ只中の若者達からほとばしるエネルギーの発散先が、酒や女性であっても何ら不思議ではありません。 その大部屋の柱には刀傷が無数に残っており、柱自体が細くなっていることが分ります。 部屋の中に佇んでいると、当時のエネルギーというか若者の叫びというか、目標観や使命観のような志が漂い残っているように感じました。 思わず、鳥肌が立っていました・・・
翻って現代は万物に恵まれ足りないものが少ない時代です。 しかし、その反面、心が満たされることも少ない時代です。 自分の損得が中心になった時代です。 ましてや、世の中だとか社会だとか自分でない部分を良くする考え方などめっきり減ったと思います。 自分の為に行きたい、自分の能力を伸ばせたらそれで良いという人が多いと思います。 今から140年前、この大阪に、国の将来を憂え自分達の青春を捧げ、一生を生き抜こうとした若者が全国から大勢集まっていた・・・ そんな志が、想いが、少しでも蘇ってくれたら社会は少しでもよくなるのではないかと思います。
大村益次郎は、日本の軍政改革の立役者になって行きますが、京都で襲撃され大坂の病院で息を引取ります。 それに関したエピソードを披露して今月は終わりたいと思います。 益次郎は洪庵先生を一生涯、心より師と仰ぎ、自分が死んだ後も先生の傍に居たいと願っていました。 京都で襲われた後、右足を切断しましたが、その右足は願い通り、洪庵の墓近くに埋葬されたそうです。 そのお墓はこの大坂、南森町近くのお寺にあるそうです。
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