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自己観照 第35号

今回は私の実父を私のことを書いてみたいと思います。 文面が少し長くなることをお許しください。

私の実父は大正7年生まれの当年87歳の老人です。 母がなくなってからもう14年になります・・・ その間、父は実家でずっと一人で暮らしていました。 暮らしてはいましたが、九州男に台所などが出来る訳がなく、妹が毎日、食事を車で運んでいました。 しかし、この2,3年は一人暮らしが永かったせいか、めっきり痴呆症が進んでしまい、息子の私すら分らないような状態となっています。 こんな父を見ると、若い頃の私との確執など嘘のように思われ、同時に哀れさえ感じるのです。 父を見ていると、年を重ねるということは淋しいものだなあと思ってしまいます。

こんな中「一人では危ない」と妹が引取り、家族で面倒を見てくれています。 妹には全く頭が上がりません・・・兄弟4人の中で唯一、父の面倒をみているのです。 妹ながらよく出来た人間だと感謝しています。

私は父に対し、幼い頃より強い強い確執がありました・・・ 幼い頃から何かにつけ叱られ、叩かれ、折檻や仕置きをよくされました。 家に入れて貰えなかったことも何回あったか憶えていない位です。 外に出され、食事も与えられず、どれ程淋しい思いをしたか、いまだにハッキリと記憶が蘇って来ます・・・ 子供ですから、家から出されると一応、近所をあちこち徘徊しますが、あちこちの家の明かりが灯り夕餉の談笑が聞こえて来たりすると、いたたまれず家に戻ってしまうのです。 しかし、それでも戻ってみると家の中からは鍵が掛けられており、中には入れないのです。 仕方がないので、外でジッーと待っているのです。 お腹も空いていますが、ひたすら我慢するのです。

そんな時、母が決まっておにぎりを作って外に出て来てくれるのです。 しかし、父から厳しく言われている為、中には入れて貰えません。 家の床下で寝た記憶が何回かあります。 子供ですから、きっと何か悪いことをしたのでしょう。 だから、折檻や仕置きをされたのだと思います。 今ならそんなことは分りますが、その時は寂しさと反抗心しか残りませんでした。 正直な所、自分の性格の骨格はこの頃に出来たように思います。

こんなことから始まり、特に中学以降は父と一緒に食事したり、顔を合わせたりする事すら嫌悪感を感じ、避けるようになりました。 何かにつけ反抗しました。 高校への進路でも、工業高校に進み電気を勉強したかったのですが、実は一日も早く自立し親元を離れたかったからです。 しかし、ある日職員室に呼ばれ、担任か父が尋ねて来た事を知らされました。 担任の先生からこう言われました。 「お前は工業高校に進みたがっているが、先ほどお父さんが尋ねてきて普通高校に進ませて欲しいとお願いされた。お父さんの話を聞いたが、お父さんの思いを叶えてやったらどうだ?」と 先生は父が家庭の事情で学歴が低いことを聞かされたそうです。 上の学校に行きたかったけれど、小さい頃に父を亡くし、次男でもあった父は進学を諦めたそうです。だから、人一倍、自分の子供達全員に大学まで行かせたいのだと話したそうです。 事実、後年になって長男であった叔父が早稲田を出ていることを知りました。

こんな訳で私は押し切られたように、普通高校を受験することになりました。 私の中には「親のエゴ」として当時は強い反発が残りました・・・ その為もあり、高校時代は正に父に反発するかのように全く勉強をしませんでした・・・ 県内では割と進学校だったのですが、受験の為の夏期講習など一回も受けたことがありませんでした。 授業をサボっては仲のよかった浜田君とオートバイでどこかに行ったりしました。 授業中でも漫画や週刊誌を読んだり、紙飛行機を飛ばしたりと、それは凄いクラスでした。教室の壁には皮靴で蹴られた穴があちらこちらに・・・ こんな進学校(正確にはクラス)でした。

これでは希望の大学に入ることはとても無理で、担任から「自分の成績を分っているのか?」と言われたことも度々でした。 しかし、浪人する気もなかったのでそんな成績でも合格するかもしれない大学を探して貰い、一校は名の知れた大学を、一校は始めて聞いた専門大学を受験しました。 勿論、両方とも私学でした。 結局、後者の大学に入ることになりました。 有名校にも合格しましたが、入学金が重なるため親の負担も重い為、有名校は諦めました。 これでやっと私は生まれて初めて家を出て大都会の東京に向かいました。

大学時代も勉強なんかそっちのけでアルバイトばかりやっていました 。 引越しのアルバイト、掃除のアルバイト、蕎麦屋のアルバイト、工事現場でのアルバイト、24時間勤務のガードマン、お化け屋敷のお化け・・・色々やりましたが、仕送りが少なかったのでアルバイトは生活そのものでした。

しかし、実社会での勉強はこんな中で人一倍したように思います・・・ 周りは大人ばかりで、人生の辛酸や苦渋みたいな話をよく聞かされました。 私には新鮮で実に面白く、楽しい内容ばかりでした・・・ その人達はどちらかと言えば、今で言うと落ちこぼれの類なのですが、元は羽振りの良かった人達だったのです。 こんな貴重な体験は私にとっては楽しい実学でした。

このような青春時代でしたので、親ではなく周りの大人達から人生を教えて貰いました。 .今の自分があるのは当時のこんな人達のお陰だと思います。 それから30年経ちました・・・そして今があります。 色々なことを経験したことによって、父への観方や接し方も少し変わりました・・・

先程、父を見て哀れだと言いましたが、今は優しく接することが出来るようになりました。 それは自分が年を重ねて何か優しくなったことと、父のことが少しは理解出来るようになったからだと思います。 今はやっと父への確執は理性で減りはしましたが、それでも幼い頃の体験は決して忘れることはありません。 しっかりと意識の中にその時の風景や気持ちが残っています。 「自己観照」という松下幸之助氏の言葉に出会った時、父との確執が蘇ってきたのです。 自分を第三者として見つめ直し反省し、改め、再び前進する・・・ 私にとっての観照の原点は父との確執なのです。 許せない!!もう許そう・・・この繰り返しが今でも自分の中で脈打っているのです。 もし、父に万が一のことがあれば、私は何か大きなものが無くなるような気がするのです。 それはライバルがいなくなる様な淋しい、孤独な、それでいて素直になれなかった自分の回想のように思うのです。 他人から私と父が似ていると言われた時にハッとします。 やはり、どんなことがあっても親子は親子なのかも知れません。 書いてはならないことをネタに書いたように思います。父に感謝します。

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