貞観政要 第295号
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中国の唐時代の書物に貞観政要(じょうがんせいよう)という、2代目皇帝だった
太宗(たいそう)(在位期間は626年~649年)の言動をまとめた書物があり
ます。呉 兢(ごきょう)という人が編纂したもので、今から約1400年前の話で
す。この太宗の治世下では戦乱が収まり、国情が安定し、人心も落ち着き、犯罪も
少なく、平穏だった時代だと中国の歴史上でも高く評価されているそうです。
その上に米の価格も下がり、どこでも食事で困ることも少なく、旅する人も増えた
そうなのです。
唐になる以前は隋という国でしたが、朝鮮半島の高句麗を攻めては何度も失敗し、
次第に国力を落とし40年程で滅亡しています。王朝は2代で終わりました。その
後、国内では分裂が起こります。中国は国土が広く民族も多種で人口も多く、言葉、
食べ物、文化、気候、言語なども異なります。こういった背景があるからでしょう
か、統一されても国情が不安定になり易く、分裂しては統一を繰り返して来て今に
至ります。日本とは様相が異なる大きな国だと思います。
隋が滅んだ後、多くの国へと分裂します。それを唐の初代皇帝となった李淵(りえ
ん)が統一したのですが、2代目皇帝となる太宗は戦功に優れていながら、善政も
実行した皇帝なのです。唐は290年間も続く大王朝で日本も遣唐使による国際交
流も盛んでした。その善政の陰の功労者が、実は太宗の奥方だった長孫皇后(ちょ
うそんこうごう)だと言われているのです。皇后は慈愛に溢れ、質素倹約を旨とし、
控え目で後世まで称えられた人です。太宗自身も皇后が亡くなってからも、度々、
皇后の陵へ通っては当時を懐かしんでいたそうです。
これ程まで後世に称えられながら、この善政も実は30年に満たない短い期間なの
です。永い治世の唐でも良くない治世に陥ることは世の常で、例えば絶世の美女に
溺れる皇帝や権力を欲しいまま手にした女帝までいたのです。その女帝には目を背
けたくなる刑罰や不審な死が付きまとっています。権力者は時にこういった暴君が
出現しています。
さて、先程も書きましたが中国は一つの国家形成への難しさの条件が多々あり、更
に国王や皇帝、後宮、功臣や奸臣といった人達も大勢いて、善政もあれば暴政もあ
り、日本とは様相がかなり違います。我々日本人にはそのような大国の状況を理解
することが難しいです。ましてや中国には少数民族も多く、宗教、食べ物、言葉も
異なり、どこかで騒動や反乱が起きると、国が分裂していく危険や複雑さがありま
す。例えば、日本では都は天皇の居る場所となりますが、中国では国を治める民族
の土地が都になることが多く、更に国家規模も大きく、宮殿の規模でさえ大規模で
そこへ仕える宦官などは日本にはない身分制度で、宮廷政治の様相は日本人の想像
を超えています。
例えば、秦という統一国家が滅んだのも趙高(ちょうこう)という秦の始皇帝がお
気に入りだった宦官が、始皇帝の遺言書を書き換えたのが元凶だと言われています。
つまり、宦官である趙高が操り易い王子を選んで2代目皇帝として祭り上げ、始皇
帝の遺言内容を書き換えたと云われています。始皇帝は絶対君主であり、何十万も
何百万も人民達へ苦役を求め、大規模な宮殿や万里の長城などを築かせ、人民の不
満が大きな統一国家を瓦解させた元凶になったと云われています。
さて、唐の二代目皇帝の太宗の話に戻しますが、太宗は皇帝になる為に兄弟二人を
殺戮し、自分の父である初代皇帝の李 淵さえ早々に隠居させています。どちらかと
言えば武力で大きな成果を挙げた人だったのですが、皇帝に就いてからは人が変わ
ったように自分に厳しい意見を言う臣下に対しても、耳を傾けるようになったので
す。太宗の対応が大きく変わった背景には長孫皇后の助言が強く影響しており、そ
の助言とは人を用いるには気に入った人ばかりでなく、苦言を呈する人材も重宝す
べきだと話していたそうです。その苦言を申し立てていた人物に魏 徴(ぎ ちょう)
という、嘗て太宗が殺戮した兄に仕えていた賢者がいたのです。その賢者の申し出
た苦言をよく聞いては治世に活かしていたそうです。貞観政要にはその魏徴の話が
良く出て来るそうです。唐は色々な問題を抱えながらも290年間も続いたのです
から、歴史に残る大国であったことは間違いありません。
さて、ここからが本コラムの第二幕です。長文となることをお許し下さい。
私がこの貞観政要を知ったのは、思いもよらない逸話からでした。それは徳川家康
に関する何気ない話です。家康へその書を紹介したのは金地院崇伝という臨済宗の
僧侶で、家康と秀忠の政治顧問としても活躍した人だそうです。家康は時折涙ぐみ
ながらこの書の話を聞いていたそうです。家康自身が後で何度もこの書を読んでい
たそうです。私は何故、家康がこの書物を読んで感動したのか、強い興味を持った
のです。徳川時代は260年余も続きましたが、家康がこの書に興味を持ったのは
いつ頃か?何故感動したのか?この2点に興味を持ったのです。これ以降は私の思
いや推測も含んだ話になります。
私は徳川家康が若い時から天下取りを目指していたとは思っていません。天下取り
の願望が強い武将の多くは戦さが強く、その力や策略で相手をねじ伏せるような人
物が多いのですが、戦国時代は下剋上時代でもあったので尚更、武勇に優れた武将
が天下取りを目指していたのです。強い者が生き延びて弱い者は首が飛ぶ時代です。
そんな戦いで強い武将に比べて家康は6才から19歳迄、織田家と今川家に計13
年間も人質に出されていたのです・・今川家には11年間もです。今川家の男子の
ように育っても可笑しくはありません。多感な時期で、人一倍思い悩む事も多かっ
だろうと思います。故に余計に天下取りへの野心に溢れていたとは思えないのです。
戦さ上手で強い武士のイメージは私にはありません。堪えるとか、時を待つとか、
最後には勝つとか、そんな戦略や闘志の方があり、武勇に優れた人物ではなかった
と私は思っています。家康に戦さでの武勇伝や勇猛果敢な話を聞いたこともありま
せん。人は動機付けがない限り、自分独自の方向へは進んで行きません。必ず何ら
かの動機付けが必要で、家康は天下取りに近い立場に居たでしょうが、自らが厳し
い状況の中で若い時からそこまでの野心を持っていたとは思えないのです。
そんな家康が、織田信長や豊臣秀吉の近くで接して知ったことは天下を取るのも難
しいが、その天下を継続させるのは更に難しいと、信長や秀吉を見て知ったと思い
ます。そして、自ら感動し愛読した貞観政要という書物から天下を手中にしてから
の後が更に難しい事を知った筈です。つまり、天下取りとは勝ち残った後の治世ま
でが重要だと知った筈です。織田信長と豊臣秀吉とは天下は取りましたが、治世ま
でには到っていないのです。一方、家康は人質期間が永く、書物に接する時間も永
く学問の習慣は身に付いていたと思うのです。信長と秀吉はうつけ者と百姓でした
ので、机上の学問は苦手な部類だったと私は考えます。
という訳で、徳川の世を永く継続させる時までが家康の真の目標だったと思います。
戦さで天下を取っても、それは家康には終着点ではなかったと考えます。これこそ
がそれまでの天下取りとは異なり、思考の広さでもあったと思います。焦らず時間
をかけ、永く続く継続する世を作り上げることだったのです。家康はこの点が他の
天下狙いの武将とは根本的に違っていたのではないかと考えます。
武将としての家康は桶狭間の戦いで、人質として出されていた今川義元が織田信長
に攻められ亡くなります。それ以降は信長に従い戦場へも出陣します。信長には弟
分のように扱われ、徐々に世の中へ軍を率いて出て行きます。ところが、三方ヶ原
の戦いで武田信玄を向こうへ回し、信長からの籠城せよとの命を守らず、打って出
て手痛い敗北を味わいます。経験豊富な武田信玄に子供のように扱われたのです。
家康は貴重な部下を亡くします。その後も信長傘下で家康は働きます。一方、農民
から出世していくのが木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)です。知恵と機転で戦さも強く、
出世街道を進んで行くのです。勿論、織田信長も戦さの強い武将です。
信長は本能寺の変で倒れ、この世を去ります。手にした天下がなくなったのです。
秀吉は明智光秀を討つべく一目散に備中高松城攻めから、誰よりも早く京都へ追い
戻り光秀を討ちます。これが事実上の信長亡き後の天下人狙いの宣言になった訳で
す。秀吉と家康はやがて数奇な運命へと向かって行きますが、家康は時を待ち、秀
吉は知恵と才覚で修羅場を乗り切って行きます。家康は秀吉が見つけ出した茶坊主
出身の知恵者である石田三成と関ヶ原で相まみえることになります。その結果は家
康が勝って天下を取り、三成は伊吹山中へ逃げ込んで捕まり京都で晒し首となりま
す。家康は後ほど征夷大将軍へ任ぜられ、豊臣秀頼の後見役という立場となり、水
面下では策を進めて、最後には大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼす訳です。ここで名実共
に天下人になったのです。このやり方が汚いと言われる方が結構いますが、秀吉も
汚い手は勝ち残って行くまでには使っています。下剋上の世の中です。
ただ、家康は時が満つるまでひたすらに策を打ち、徐々に相手を追い込み、更なる
る時を待ち、最後は勝つべくして天下を取った人物です。そんな人物がその場限り
の戦さをすることとは思えません。勝つべく戦さをやったのです。天下人となった
後のことも考えていた訳です。そのことを学んだ一冊がこの貞観政要だったと私は
考えています。従来の天下人とはここが違っていました。親子三代、治世の完成度
を上げて行ったのです。時間を掛かっても必然を引き寄せる稀有な人物だったので
す。
戦後時代が終われば戦いに強い人材ではなく、治世に長けた人材が必要になります。
江戸幕府から明治も同じです。古い体制を壊す人材と壊した後の新しい仕組みを築
く人材が必要です。戦国時代も同じで古い体制を終了させる人、新しい体制を作り
上げる人が必要だったのです。それを家康は実現した訳です。戦いの時代に活躍し
た大名達の配置や石高にも違いを出し、領地も外様は江戸より遠い西国へ、譜代な
らば近畿から江戸や奥州までに配置したのも道理です。武家諸法度も制定し、大名
に財力をや武力を蓄積させず、労苦を必要とする治水工事や公共事業の普請も命じ
る訳です。更には人質として妻子を江戸詰めと定めます。以前に比べ戦力基盤が強
固な時の人質です。勝ち残っても策が徹底しています。
私は朝鮮出兵で国中が大騒ぎの時に何故、貞観政要に感動したのかと不思議でした
が、家康の中には戦いの先のことが次第に大きく思考されていたのではないかと思
います。当初は人を用いる重要さを学び、次が敵味方関係なく広く人材を集めるこ
とも悟ったと考えたと思います。関ヶ原の戦いでは豊臣方の石田三成と決定的な差
が出ています。それは豊臣秀吉配下だった武将が家康方に移ったことでも明白です。
私が関ヶ原を歩いて石田三成が戦さで負けたのは「負けるべきして負けた」と考え
た答はこの貞観政要にもあったということです。三成は負けるべきして負けたので
す。家康は人望、根回し、戦略、器量、規則を守る冷徹さで優ったのです。だから
こそ、勝つべくして勝ったと私は思います。
家康が天下取りを真剣に考え始めたのは、秀吉が老いて豊臣全体が弱り始め、石高
の高い5大名を大老へ就かせ、石高は高くはないけれど他の5名は奉行に就かせ、
幼い秀頼の行く末を頼み願い、特に家康には何度も何度も後見を頼みますぞと頼ん
だ頃、家康はまだ具体的には天下を取ろうとは思っていなかったと思います。石田
三成は秀吉子飼いの武将達から疎まれ、命までも狙われ、家康に助けられて佐和山
城へ下がってから目立った動きはなかったのに、何故、出て来たのかです。
家康は会津の上杉景勝が何度も要請しても上洛しないので、家康がとうとう討伐へ
出向むく途中で、三成は今川輝元と組んだように反旗を翻したのです。それを家康
は聞いて激怒します。そして小山評定と言われる会津攻めへ同行中の大名達に集ま
って貰い、緊急の会議を開き、三成が立ち上がった話を諸将に行い、その場で福島
正則が三成打つべしと発言したことに端を発して諸将全員が同意したことで、行先
を急遽変更して三成征伐へ西進した訳です。
この会議は小山評定と呼ばれ、秀吉傘下だった武将達が家康に従うことを誓い、家
康の将来への腹は決まったと思います。よって、これまでは少なくとも上杉景勝に
勝つ戦さの考え方だったおが、ここから家康は天下取りへ舵を切ったと思います。
家康はそれでも三成を討つことを目標とします。いきなり大阪城を攻めるようなこ
とはせずに周囲から堀を埋めていく家康流のやり方で進めるのです。鳴かぬなら鳴
くまで待とうホトトギスです。名護屋城の話はそれより以前であり、家康には天下
を手中にする考えはなかったのです。小山評定で亡き秀吉子飼いの大名達から三成
打つべしの決意を聞いて、ここで正式に家康は天下取りの腹を決めたと思います。
織田信長でも豊臣秀吉でも「天下を治め始めてからのその先が出来なかった」訳で
す。家康もそんなことを考えていたと思います。勝ち残る為に策を練り、人を動か
し、時間も掛けて取り組んだと思います。それでも勝ち残った後の治世が最も難し
いことだと悟り、その先を考えたのだろうと思います。その結果、豊臣家を滅亡さ
せた後の秀吉子飼いの大名の石高や配置も念入りに考えた筈です。
具体的にその例を話すと、関ヶ原の戦さでは石田三成は鶴翼の陣形で先に陣を構え、
家康は後から陣取りをしたので、いきなりの参戦では勝てる筈がありません。戦場
は西高東低の高低差です。三成優位の陣構えです。家康は戦場よりも先に打つべき
手を打っていた為に勝ったのです。小早川秀秋は大きな賭けだったと思います。
1万5千の兵は大きく戦果を左右します。何よりも勝つことが重要です。私は更に
西軍大将の毛利輝元や家康本陣裏手の南宮山に布陣した毛利秀元が動けなかった、
動かなかったことが、決定的に大きかったと考えています。兵力2万以上あった訳
ですから。
徳川幕府は260年間続きましたが、その土台は家康、秀忠、家光と3代もかけて
作り上げたのです。親藩、譜代、外様、参勤交代、奥方と子供は人質のように江戸
詰め、治水工事は大名への費用も荷役も普請命令、配置替え、後継者がいなければ
御家断絶、大名同士の婚姻や跡継ぎは幕府の許可が必要、城の普請も幕府の許可が
必要で、許可なく実行すれば領地没収や国替え、お家断絶、・・こういったことが
厳しく行われました。
家康の為に大活躍を果たした福島正則ですら、領地の広島城を勝手に普請した罪で、
お家取り潰しとなりました。ルールの前には過去の功績は関係ないのです。
大事なのはお家であって、平穏な時代でも続ける事は難しかった訳です。徳川時代
はやはり260年も続いた訳です。
中国の唐時代の名君として取り上げた太宗は最初こそ武力中心の暴君かとも思いま
したが、後半は、部下達の話には耳を傾け、善政を敷いた有名な皇帝なのです。
私はこの書物に太宗と家康に共通するものを感じます。太宗は初代皇帝の実父と共
に隋という国と戦い、滅ぼして長安に都を置いたのです。ところが、新しい国を興
した後は治世の社会になりました。刀や槍や弓だけで国を治めることは出来ません。
日本でも織田信長も豊臣秀吉も国を治め続けることは出来ませんでした。家康はこ
のことを貞観政要から学んだのです。260年も続く徳川体制を築いことは日本の
歴史では稀有なことです。国を治める仕組みは人以上に強固なものです。この点は
織田信長のような相当な自信家の「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」では
治世まで届かずに反逆者が現われます。「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」
でも事実上、一代で終わりました。後継者が不在でした。織田信長が天才なら、豊
臣秀吉は知恵者です。家康は恐らく衆知を集めて事を成す、時間を味方にして耐え
た稀有な天下人です。時が来るのをひたすら待ち、そして確実に仕留めるタイプだ
と思います。幼少より置かれた自分の立場を嘆くでもなく、じっと待ち、来たるべ
き好機に備えた人なのです。
時代を待つとは1年や2、3年ではありません。その時が来るまで健康で、長生き
して、子孫を増やし、情報を集め、味方を増やしていく訳です。家康は正にそうい
う人です。健康で、長生きし、沢山の子供を残し、あちこちに姻戚関係を築き、敵
方であった大名を味方にし、子孫繁栄まで準備したのです。
この唐時代の書物では唐が栄え、人心も安定し、暮らしも良く、天下が落ち着いて
いた良い時代だったという事です。犯罪が少なかったのもその為だと思います。
貞観政要は唐の太宗が自らの治世を振り返り、政治や統治に関する教訓をまとめた
書物です。
この中に書かれてある「三鏡の教え」は、主君が自分を省みるための重要な指針と
して位置づけられているそうです。自らの行動や判断を反省して良い統治を行う指
針なのです。「銅の鏡」、「歴史の鏡」、「人の鏡」という三つの鏡です。
内容を知りたい方はご自身で是非、調べてみて下さい。
きっと感じるものがあると思います。
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