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松下電器歴史館その2 第41号

先日、大阪守口の松下電気資料館に出掛けて参りました。 何回も訪れていますが、教えを忘れることも多いですし、新たな発見がいつもあります。 例えば、松下電器の事業場は門真市付近に多いのですが、創業もその辺りに違いないと勝手に思っていました。 それがとんでもない、間違いだと気付かされました。 阪神野田駅西側の西野田工高の南側に創業した当時の住居兼工場があったそうです。 そこで、歴史館を訪ねて気付いたことをまた書いてみたいと思います。

創業時の社名は松下電器器具製作所だったと思います。それが大正7年(1918年)、松下幸之助が22歳だった筈です・・・・ (余談ですが、大正7年は私の父が生まれた年で、父はまもなく米寿です) 創業時の家は2階建ての借家で、一階の床を抜いて工場にし、安くて良い商品を作るのに工夫を施していました。 この家では有名な二股ソケットを作っていたのですが、良い品質の物が安く出来るので、見に来る人がいたそうで、 見た後には「なるほど、これではいいものが安く作れるはずだ!」と感心して帰ったそうです。

人は困った時にこそ知恵や工夫が出ます。 この住居兼工場の借家もその典型でした。 2階に上がる階段の幅を半分にし、工場のスペースを広げたり、押入れに職工さんを入れて2段上下で作業させたり、 ソケットの金具部分は不要となった電球の金具部分を流用したりと、成る程と思えることばかりです。 もし、その住居にスペースの余裕があれば、そこまで考えなかったかも知れませんし、私など同じ状況下でも何も考えずに 当たり前に対応していたと思います。不要になった電球の金具を使うことについても全く同じです。

幸之助氏は同じ製品を作るにしても、どこかに必ず知恵や工夫を加え、他社製品と異なる付加価値を付けていました。 それに加え、「商売」の基本を9歳の丁稚奉公時代から叩き込まれた為。徹底してその教えを守った凄さにはただただ敬服するばかりです。 そこには必ず「人間の様子を仔細に観察し、小さな何気ないことすら見逃さない眼力」があったと思います。 この眼力は苦労して培われた人の目線よりずっと下の目線そのものだったと思います。 例えば、氏が書かれた「道」という詩があります。 ごくごく平凡なテーマですが、そこに表現された言葉には人生で迷い、苦しみ、自分を見失いそうになる時に進むべき道を分りやすく 感動を持って伝えて来るのです。 私は初めて、竹脇無我氏が朗読するその詩を聞いた時、心が痛いほどジーンと感動したことを憶えています。 この詩で人生が変わった方を私は知っています。それほどスゴイのです。

経営の神様と褒め称えられ、今太閤とも称された松下幸之助氏。 その生き様は正に「人生の神様」だったと言えます。 今は能力ばかりが持てはやされ、効率経営ばかりが叫ばれる時代ですが、人をベースに置いた 「本人が成長しようとする自己意識」を喚起した人材思想こそ、発展する会社の原動力なのではないでしょうか。

松下電器の創業記念日を決めるキッカケとなった大阪堂島での集会。 その時の一人一人のエネルギーが今の大松下を作る分岐点になったに違いありません。 「人が感動する、人を感動させる」ことが、人の生き様に与える影響の大きさを思わずにいられません。

かつて世話になったある創業者がこんなことをいつも言われていました。 「人生は感動の歴史で綴れ」 偉い人達は、みんな、土壌が同じです。 違うのは、幹や枝や葉っぱや花が違うだけです。

これからも精進、精進です。

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