top of page

紅衣少女 第10号

今月は、ご交誼を頂いております菅野芳亘(すがのよしのぶ)氏についてご紹介したいと思います。

菅野氏(以降は菅野先生と略称します)は昭和27年生まれの当年50歳かと思います。 岡山理科大学付属高校の教鞭を執っていた33歳のある日、たった一日で両目の視力を失ってしまいました・・・ 1時間目の授業を何とか終え、職員室で父兄へ電話しようとダイヤルを回そうとした瞬間、目の前が真っ暗になり椅子から転げ落ちてしまいました。 職員室は大騒ぎになり、救急車で病院へ運ばれました。 一ケ月の入院後、医師から言い渡されたのは、二度と見える可能性は殆んどないという死に値する宣告でした。 その当日は朝から目の前に霞がかかったようになっていたそうです。 医師の診断は急性網膜剥離。普通の網膜剥離ではありませんでした。治る可能性はない難病だったようです。 菅野先生は「スガッツ!」と呼ばれるような熱血先生であり、少林寺拳法大挙士5段の腕前でもありました。校内では廃部寸前だった小林寺拳法部を 全国大会優勝にまで導きました。 また、28歳の時には中国の少林寺で模範演技を最後に奉納された程の腕前だったのです。 その先生がある日突然、両目の視力を失ったのです。 二度と回復しないと宣告された時のお気持ちなど、到底、私には察することが出来ません。 死に値する宣告などというものは、私には未だ経験がありません。 そのような経験はとても言葉で言い表せられるようなものではないと思います。

当然のように、菅野先生は生きる力を失い「死のう!」と覚悟されたのです・・・ そして、入院していた病室の窓枠に手と足をかけ、今まさに飛び降りようとしていた時、幼い息子に「お父さん、そんなことしたら危ないでしょ」と 声をかけられ、九死に一生を得たのです。 「この何も知らない幼い健気な息子の為に生きなくてはならない、自分にはまだやるべき残されたことがある・・・」と。 たまたま、父親の見舞いに来たことが菅野先生の運命を救ったのです。

そうはいいながらも、その後の生き方を見つけるまでは、私などには想像がつかない程、苦労され、涙し、努力されたことは間違いありません。 やがて、友人から送られて来た一通の手紙が更に人生を激変させるのです。 手紙には、中国内陸部の湖南省長沙の医学院で眼病治療に大きな成果を上げているという新聞記事が入っていたからです。 西洋医学ではなく、漢方薬や針や灸や食事療法を使った東洋医学の記事だったのです。 その友人の手紙の内容は、中国への事務手続き等は自分がやるから、思い切って治療を受けてみないかということでした。 菅野先生は、色々と悩んだ末、西洋医学では駄目だったが、ひょっとして、万に一つでも可能性があるのなら治療を受けたいと決心されたのです。

言葉も話せず、ろくに歩行訓練も出来ない身一つで、菅野先生は単身、中国内陸部へ旅立たれたのです・・・ 不安と期待・・・ 如何ばかりだったのでしょうか・・・ 胸が熱くなります・・・

その医学院で半年余りの入院生活を送りますが、結果として視力は回復しませんでした・・・ しかし、一時的にぼんやりと目の前が明るくなった時期があるのです。 その頃、日本の友人から井上靖の「敦煌」という小説を朗読したカセットテープが送られて来ており、それを何回も何回も聞いていたそうです。 その小説には主人公の叶わぬ恋の相手としてウイグル族の王女が現れますが、菅野先生はそのことが大変印象に残りました。 凛として気高く、民族に誇りを持ち、王女として自分を律している姿・・・ しかし、この王女は主人公と結ばれず、自分の立場と民族の違いに悩み、高い城壁から身を投じてしまいます。

その時だったのです。世話になっている中国の方に熊さんという人がおりました。 その熊さんが、絵が好きだったという菅野先生の為にある一冊の中国画集をプレゼントしたのです。 その本のめくった最初のページを見た瞬間、菅野先生は釘付けにされるのです。 ウイグル族の王女そのものが描かれていると感じたのです。 その時にだけ、うっすらとかすかにその絵が見えたそうです。 その絵のタイトルは「ウイグル族の少女」 友達から送られてきた本の主人公と中国で知り合った熊さんに貰った画集の絵がイメージとして一致したのです。

それからは菅野さんはどうしてもその絵を描いた画家の名を知りたくて熊さんに頼みます。 熊さんは、一ヶ月近くかかってあちこちへ連絡し、やっと情報を掴んで来ます。 その間、菅野先生には会わずにずっと探していたそうです。 その画家は中国美術学院の顧生岳教授ということが判明したのです。 それで、菅野先生は会ったこともない顧生岳教授に中国の方の手助けで手紙を書きます。 その内容は、自分が何故中国に居るのか、その絵に思い入れている理由などであり、そして出来ればその絵を譲って貰いないかというものでした。 何回か手紙を出した後、その教授から返事が来たのです。 その返事には、その絵を差し上げますと書かれてありました。 中国で5本の指に入るという美術大学の教授が、とても大事にしている絵を差し上げるというのです・・・ それも、目の見えない何の縁もない日本人にです。 後日、教授夫人が2泊3日をかけ、2000キロ離れたところから絵を携えて一人で尋ねて来られるのです・・・

(その後の話は紙面の都合により省略させて頂きますが、あらすじの半分も書けていません。 大変に中国的で壮大な人間愛に溢れています。 中国にはいまだに我々日本人が高度成長と共に捨て去って行ったものが残っているように思います)

菅野先生は視力というものを失いましたが、その代わり、中国の人々との交流を通じて人間に大切なものを手に入れることが出来たと話されています。 菅野先生が顧生額教授と会えるのは、それから実に10年の月日が流れてからなのです・・・ その間、お互いに会おうと機会を作りますが、何回もその都度やむなき事情で会えないのです。 「紅衣少女」という本は菅野先生の執筆本であり、顧生額教授がその絵に付けていたタイトルなのです。 私はこの「紅衣少女」を読んで、胸に込み上げて来る熱いものがありました・・・ 特に、このお二人が中国美術学院で会えた時のことは、我が事のように瞼に浮んで来ました・・・ 何という運命、何という人間の素晴らしさ、何という悦び・・・ 人に感動することは、本当に素晴らしいことだと思います。

ちなみに、菅野先生は両目がご不自由ながら、ボウリング、スキー(二級挑戦中)、ゴルフ、ジャパンパラリンピック優勝などと輝かしい軌跡を 残されておられます。 人間は諦めたら駄目とよく言いますが、言うは易し行うは難しです。 しかし、死ぬか生きるか、人生のどん底を経験された方は素晴らしい姿になって生まれ変わっておられます。 そのような経験のない私達は、素直に自分の置かれている境遇に、まず感謝することが必要だと思います。 そこから、見過ごしたり気付かなかったりしていたものに深い思いが生まれて来るのではないでしょうか。 人間、生まれて来た境遇も育った環境も能力さえも違います。 その与えられたものをどれだけ活かして生きているかが尊いのだと思います。 生かされて生きているということだと思います。 私は菅野先生の生き方に深く感銘を憶えた次第です。 是非、本コラムをご覧の方にもお読み頂きたいと推薦致します。 なお、この著作はCD-ROM版、カセットテープ版、点字版でも販売しています。 近く、中国語に翻訳され中国国内でも販売される予定だそうです。 もし、書店で入手出来ない場合は私宛てにご連絡下されば、手配のお手伝いをさせて頂きます。 「紅衣少女」 菅野 芳亘 著  新風書房 税別1,500円

最新記事

すべて表示

生成AI時代 第274号

最近と言うか、正確には2年も経っていませんが、私達が今まで経験したことの ない驚きが世界中へ拡がりました・・・ 例えて表現すると、今から170年前の1853年、嘉永6年に永く鎖国をして いた日本へ、アメリカ東インド艦隊のペリー提督が率いる4隻の黒船が横須賀の 浦賀沖に突如として現れた時くらいの衝撃だと思われることが起きました。 ペリー提督の時は日本へ矢継ぎ早やに開港や貿易取引など、不平等な契約など

好奇心 第273号

生きている間には誰しも、何かの時に強い好奇心を感じたり、駆られたりすることがあ ると思います。この好奇心は人間には特に強く備わっているようで、他の生物にはない とは言いませんが、人類に備わっている特徴の一つではないでしょうか?・・・ この好奇心こそ、人類が地球上で最も高い知能や文明、繁栄をもたらした正体ではない かと思うのです。この好奇心は星や星座に名前を付けたり、神話を重ねたり、幾何学と いう学

シリコンバレーの思い出 第272号

年令を重ねて来ると、これから先の抱負や希望よりもいつの間にか自然と昔の思い出 を懐かしく思い出す時が増えて来るような気がします・・どうしてそうなるのかは自 分では分かりませんが、脳自体が特に意識しなくても何かの拍子に働き始めるのかも 知れません。それでも自分の意識があるのだろうと思います。 また、脳は新しいことに対しては活発に動くようで、その時にはエネルギーも多く必 要になるようです。昔の思い出な

Opmerkingen


bottom of page