ある若者 第300号
- 3 日前
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更新日:2 日前
今月で本コラムが大台の300号となりました。毎月、毎月、大した内容もないのに25年間も
書き続けて来たなあと我ながら思います・・自分本位に書き始めたコラムですが、書くことが好
きなだけです。文章は下手だし、文意も支離滅裂、短く書けば終わる内容をダラダラ引き伸ばし
ているような内容だなと自分でも思います。
しかし、それでも継続は力なりと言われますが、継続だけは得意なのかも知れません。割と自分
自身がそんな性格だなとコラムを通じて思います。毎日、起きて顔を洗い、歯を磨き、朝食を摂
るように決まったルーチンを続けて来ただけと自分では思います。要するに習慣になっているの
です。習慣はやらなくなると妙に物忘れに感じるようになります。月末になると意識が自然にコ
ラムへ向くのです。書くこと自体が好きなので、内容の質は私にとっては殆ど関係がありません。
読んで頂ける方が一人でもいれば私はそれで満足です。見られても構わない日記みたいなものな
のです。
ー事の始まりー
さて、今回の話は旧知の方からのメールがキッカケとなりました・・その方はSさんと仰る方で
お知り合いになってから既に30年以上にも経っており、今では70代の方です。もう一人はA
さんといい、当時、私がやっていた会社の社員さんです。今はもう60代の筈です。それに私も
入れて3人で共有したある出来事があり、当時を思い出すと今でも私は強い無念さが蘇って来る
のです・・今回の話は以前にも本コラムでも書いたことがありますが、今更ながら当時の悔しさ
や無念さが思い出される内容なのです。何か関連したキッカケがあると直ぐに思い出す出来事だ
ったのです。
それはある日、Aさんが31,2才の頃の話です。Aさんが会社に遅刻したことから始まりまし
た。会社へ向かう途中にどうしてかは分からないけれど、足が動きにくくなっていて歩くのに時
間がかかってしまい、会社の始業時間に遅れたという話から始まりました。最初は不可解な話だ
なあと思いましたが、同じことが翌日からも起こり始めたのです。本人はどうしてか自分でも分
からないというだけで普通の早さで足が動かなくなり、徐々にもっと時間がかかるようになり、
時には倒れたりすることもあったそうです・・
そこでA君は住んでいた地域にある総合病院へ診察を受けに行ったのです。色々な検査が行なわ
れ、最初は何だろうかと思っていたら、結果は思いもしない病気にかかっており、次第に足先へ
の血流が悪くなり、やがて足の先から壊死していく病気だと判明したのです。入院することにな
り、色々な治療を受けることになり、薬物治療やカテーテルを使った治療も受けたりしていまし
た。足が黒ずんで行き、触っても冷蔵庫の中みたいに足が冷たくなっていたのです・・
色も次第に浅黒く変色して行きました・・
徐々に病状は悪化しており、やがて整形外科医も治療に参加し始め、最悪の場合の話もAさんに
話したようでした。それは膝下から切除する手術でした。
私が見舞いに行った時は気丈に振る舞うAさんでした。可能な限り、明るい前向きな話をしてい
ました。松葉杖をついて歩く姿を思い描いて、強く生きよう、頑張ろうと耐えているようでした。
やがて、片足を膝下から切断することが決まったのです。それでもA君は気丈に振る舞っていた
のです。手術が行われ、見舞いに訪れた時にはその片足はもうありませんでした。A君は元気に
気丈に明るく振る舞っていました。私にはA君の気持ちが感じ取れました。
もう何も言いようがありませんでした・・
A君はまだ30代始めで独身です。これからまだまだ人生が控えています。これ位の事でといっ
た気持ちが痛いほど伝わって来たのです。当初は自分で受け入れられなかった現実を受け入れて
強く生きて行くと自分を叱咤激励していたと思います。病室で話していても以前より明るくなっ
ていました。手術した傷跡も明るく話しながら見せてくれました。それほど自分が苦しんだと思
います。どうして自分だけがこんな目に遭うのかという気持ちもあったと思います・・
そんなA君の病室へ行くと、屈託もなくサバサバしていて松葉杖を突いて歩く姿を見せてくれた
のです。冗談を言ったり、表面的には気丈夫な様子だったので、これなら職場復帰も出来ると私
は考えていました。
ー2度目の手術ー
それからは手術後のリハビリも始まり、杖を突いて歩行も出来るようになったのに残酷なことが
起こり始めたのです・・残っていたもう一方の片足にも同じ症状が出始めたのです。その症状も
次第に悪化し始め、やがてそちらの足も切断することになったのです。
私にはもう慰めようがありませんでした。何も言えませんでした。
それからは病院へ見舞いへ出掛けても、A君に以前の気丈さが見られなくなり、しきりに絶望や
自分だけがどうしてこうなるのかとか、何も悪い事はしていないにとか、悪い事をしながら平然
と生きている人もいるじゃないかとか、やり場のない恨み辛みが私にも投げかけられているよう
でした。
明らかに最初の手術の時とは様子が違いました。片足ならまだ自分の力で歩けますが、両足とな
ると車椅子生活になり、日常生活は予想以上の困難や補助も必要になります。独身のAさんにと
っては将来、家庭を持つという可能性も消滅したような言い方も出るようになっていました。
何の為に生きなきゃいけないんだとか、何で自分だけがとか、私も辛いし、A君も辛いし、強く
生きることの虚しさみたいな気持ちがあったと思います。
そして、自分だけがそんな境遇になったことが納得出来ない言葉も出るようになっていました。
私も返す言葉すら出なくなりました・・
そして、残った片方の足の手術が行われ、私は日をおいてから面会に行きました。
私は大胆にも手術後の両足を見せてと言いました。すると、A君は黙って両足の下部分を見せて
くれました。
私もA君も黙ったまま、ひざ下10センチ程の所を目をそらさずに直視しました。周囲の皮膚を
伸ばして切断場所を包むように処理されてありました。その時の正直な感想は周囲の皮を寄せ集
めて切断部分を覆い被せている感じでした。妙な表現に聞こえるかも知れませんが、外科手術と
は凄いものだと初めて見て知りました。
この頃はAさんは生きる価値を見失い、死にたいとよく言うようになっていました。
私の今は亡き父親が太平洋戦争中に衛生兵で大陸へ出兵していたので、野戦病院へ運び込まれる
兵隊の手術に必要な薬品や麻酔薬が足りなくて、口に木や猿ぐつわをして体を皆で押さつけて外
科手術した時の話を聞いたことあります。手術する方もされる方も恐ろしい話でした。私は小学
生だった頃の話で人間の凄さを初めて生々しく感じた、怖かった記憶があります。手術する方も
される方も想像の域を超えていて、人間の凄さを生で聞いた気がしました。生きて日本へ帰るこ
とが何よりも大事だったのです。
さて、A君はやがて退院して車椅子で出歩けるようになりました。その際に経験した公衆道徳や
公共施設の不便さを口に出すようにもなりました。例えば、歩道に並べられてある自転車がどれ
だけ車椅子の邪魔になっているかとか、車椅子ではちょっとした段差でも乗り越えられないとか、
狭いエレベータ内では車椅子を反転出来ないとか、それまでに聞いた事のない話でした。
Aさんも初めて我が身のことになって知ったと話していました。
ー特殊車両ー
片足の時と両足を失ってからのAさんは明らかに変わりました。強く生きる話は聞けなくなり、
誰に対してというより自分がこうなったことへの恨みつらみを誰彼にも言うように変わっていま
した。どうして自分だけがこんな目に遭わなきゃいけないんだといった言い方も増えて行ったの
です。見舞いに行っても愚痴っぽくなり、慰める言葉も見つからなくなりました。
ましてや激励することも出来ませんでした。ただ、ただ、聞くしか出来ませんでした。
それでも私はAさんの社会復帰を諦めきれず、両手だけで運転して会社まで通える特殊車両を手
に入れたいと役所へ相談へ行きました。しかし、残念ながら雇用者側が先に特殊車両を購入して
から補助金を申請し、審査後に一定額を貰える制度でした。特殊車両を購入する為に事前に補助
金を融資したり、一定額を貰える制度ではありませんでした。
こういった特殊車両は一般車よりも価格がかなり高く、中小企業では簡単に買える金額ではあり
ませんでした。銀行でもそういった制度はないかと行ってみましたが、今から30年前の日本に
はありませんでした。結局、Aさんへ両手だけで運転できる特殊車両の購入は諦めざるを得ませ
んでした。
その時にはどうしてそんなに高いのだろうかと疑問に思いました。国が支援してくれたら一般車
に多少は加算した金額で購入できる制度なら素晴らしいのにと思ったものです。また、大手自動
車企業も利益の一部を還元して安く販売して欲しいなあと思いました。特殊車両でも一般車と同
様に儲けないといけないのだろうかとやっかみ気味に思いました。
ーある言葉ー
こんな時にSさんへAさんの話をしたのです。Sさんは自身が執筆した本の出版記念会を開くの
で、そこへAさんを連れて来て下さいと言ってくれたのです。
AさんもSさんの話は手術から話していたので、Aさんには興味があったと思います。
当日、私はAさん宅へ車で迎えに行き、Sさんの出版記念パーティのホテル会場へ向かいました。
会場に着いてからSさんへA君を紹介したのです。
Sさんは直ぐに「君がA君なの?」と顔を触っていました・・
そして、「よく、来てくれたねえ」と喜んでくれたのです。
実はSさんは全盲なのです。かつては岡山で高校教師だったのです。
ある日突然、目が見えなくなってしまったのです。
全盲になり、そこから人が真似できない程の苦労と努力で重ねて社会復帰されていたのです。
忘れもしません。SさんがAさんへ発した第一声を生涯忘れません。
「A君、同情では何も変わらないからね」とはっきりと2,3回言われたのです。
この言葉は人生の中で何事にも通じる言葉だと思います。
環境のせい、人のせい、運のせい、お金のせい、親のせい、全て本人以外への言葉です。
これでは何事も本質的には解決出来ないということです。
Aさんと同じ病気で両足を失った方も会場に来ていて、健常者の私はその時ほどこの言葉が
沁みたことはありません。
・・・・・・・
あれから永い時間が過ぎました。
今頃、Aさんはどこで何をしているのだろうかと思います。
実はSさんからのメールには息子さんの展示会の案内が添えられてありました。
息子さんは鉛筆画で戦時中の日本海軍の艦船を描いています。
何故、そんな絵を描いているのかを知りたくて出掛けてみたのです。
残念ながら、会場では他の方との談笑中だったので私は息子さんと話は出来ませんでした。
最後に。
人には必ずそれぞれの人生があります。
その人生が永いか短いか、幸せか苦しいかはその人次第だと思います。
あの稲森和夫氏が京都市内で托鉢をした時の話を思い出します・・
頭から傘掛けでお経を唱えながら町家を訪ねてお布施を貰うのですが、
みぞれ交じりの街中で裸足に草履の私に見ず知らずの人が小銭を差し出した
時の尊さに心打たれ、涙が溢れたそうです。
一人の人間に戻ればどんな人でも一対一です。
感謝。
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