歴史を読む 第298号
- 7月1日
- 読了時間: 18分
更新日:7 日前
私は若い頃から歴史や地理が好きで、殊に日本と周辺国について興味があり、周辺国と
は中国と韓国であり、これらの国とは貿易、文化、文字、政治、宗教、食物、服装まで
関係が深いと思います。しかし、どの国にも歴史や時代の節目があり、国のリーダー、
政治、社会制度、内紛、周辺国との軋轢、治世期間など実に様々です。時代の変遷につ
いてはその実態が各国でも分かり難いのですが、国のリーダーと周囲を取り巻く勢力や
その反対派などとの争いが多く、それが国家盛衰と新国家誕生へ繋がっている例が多い
ものです。
また、歴史以外にも経営者や科学技術が好きでそれらも好んで読んでいます。それ以外
でも理解度は低いのですが、宇宙に関する話に強い関心があります。現実離れしていて
内容も難し過て分からない事が多いのですが、それが逆に興味を飽きさせない為か、分
からないなりに興味本位に読んだりします。科学者は古来から面白い事を考えていて、
内容は難解でも読んだりしています。今は量子宇宙論が何か面白そうだと思っています。
私にとっては歴史も宇宙も詳細に分からなくても知りたいという欲求が同じようにあり、
興味が尽きないのです。大きく言えば全てが人類の歴史だと言えます。
さて、私の読書時間ですが、殆どが仕事先との往復の電車内です。往復でも1時間かか
らない時間なのですが、電車内は私の”個室時間”であり密度も高い空間なのです。大勢
の中の”個人図書室”になります。これほどに集中出来る場所はなかなか他にはありませ
ん。一日で読み進めるページ数は知れていますが、亀さんの歩きみたいなもので少しず
つ確実に進みます。時間はかかるでしょうが、必ず最終ページには辿り着きます。
習慣になると短い時間でも苦ではなくなります。続けていれば分厚い本でも必ず最後に
は読み終えることが出来ます。逆に面白くない本はそう思った時以降は読みません。
ひどい言い方をすれば捨ててしまいます。取っておいても部屋の中を狭くするだけです。
整理整頓は断捨離だと私はブックオフに売ってからそう思っています。本の価値は読ん
だ後に自分が何か影響を受けて考え方なり、行動が変わる事だと割り切っています。
ー中国への興味ー
さて、私は日本の歴史では戦国時代と幕末が好きですが、中国の歴史は日本よりも古く、
内容も面白くて興味が尽きません。半面、読み辛いことも事実です。それは日本に比べ
て中国の歴史は政治、文化、宗教、食物、民族、周辺国などの要因が日本より多く、中
国から日本へ伝えられたものも多く、川で例えると日本の上流に当たるのが中国だと思
うのです。
それほど古来から栄えていた国であり、国土も日本の25,6倍と広いし、しかも国土
の中心部分に黄河と揚子江という長大な大河が流れており、その周辺は広大な穀倉地帯
が拡がっています。また、中国から西ヨーロッパまで続くシルクロードを介して異国と
の交易も盛んでしたし、中国が持つ文化や多様性は日本にも見られない多様性がありま
す。また時代が変われば、権力者や政治体制も変わり、首都も宮殿もあちこちへ移りま
す。現在、中国の首都は北京ですが、日本では京都と明治以降は東京が中心です。また、
中国の宮殿の規模や広さ、そこで働く宦官や役人の数も多くスケールが違うと思います。
―中国の歴史物ー
さて、歴史に出てくる戦いの規模が日本と中国では規模が大きく違います。日本の関ヶ
原の戦いでは東軍・西軍を合せて15万人余でしたが、「項羽と劉邦」(司馬遼太郎著)
の彭城の戦い(ほうじょうの戦い)では劉邦軍が56万、迎え撃つ項羽軍はたったの3
万人だったと書かれてあります。この大きな差に関わらず、戦いでは項羽軍が勝ちまし
た。56対3で3が勝ったのです。信じられますか?・・
普通に考えるとあり得ない比率ですが、中国の歴史物ではよくある話です。日本の感覚
と中国の感覚は違うのです。両軍合わせて60万人規模の戦さで項羽は生涯で負けたこ
とがない強さを誇るのです。逆に劉邦は項羽へ一度も勝ったことがありません。
最後に劉邦は勝ちましたが、それも自分の力と言うよりも周囲の力によるものです。
それまでは30数回戦って全て負けています。項羽は戦いに滅法強いのですが、性格が
気短かで怒ると20万の敵軍を生き埋めにする程の残酷さを持っている西楚の覇王です。
逆に劉邦は戦さには弱く、周囲に支える人材がいなければ持ちこたえることが出来ない
部下に恵まれた漢の覇王です。
この項羽と劉邦については前漢時代に史実を書き残す役人だった司馬遷という人が書き
残した歴史書「史記」に書かれてあります。時代は前漢時代ですから紀元前206年~
紀元8年という、日本では考えられない随分前の話なのです。また、中国の歴史物では
登場人物の数が多くて名前と肩書が憶えられない程です。また、国内を移動する範囲も
広大で日本人にはピンと来ない感覚です。そして面白い点がもう一つあります。それは
日本でも知られている諺が出て来てその意味する内容を知ることがあります。
中国と日本の歴史にはまず異なる背景があります。国土の広さや人口の多さ、民族の多
さ(大小を含めると60族余り)、そして国境や周辺国の異民族との戦いもあります。
例えば、秦を興した始皇帝は初めて中国を一つの国に武力と法律、貨幣などで統一した
ので一国の皇帝ではなく、複数国をまとめ上げたので始皇帝と名付けました。その国に
対する異民族からの侵入に備えて万里の長城を造らせましたが、その規模はとてつもな
く大きく長く、難工事だっただろうと思います。何しろ山の上に、当時の機材や運搬法
で築城するのです。まとめ上げた国から無償で人を集め、その工事に使ったのです。
この無報酬だった労苦は後に秦へ対する不満となって爆発します。また、未完のままだ
った阿房宮や始皇帝の陵墓、兵馬俑にも大勢の人民を無償で働かせて造ったのです・・
戦いでは牢に繋がれていた人達も狩りだされていましたから。
国では政権が変われば、首都も変わるし、土地の広さも兵馬の数も日本とは規模が違い
ます。登場人物の名前だけでも似た人も多く覚え切れません。使われている漢字も日本
で使われていない難しい漢字も多く、行きがあります。
中国から日本への影響も多く、文字、政治、文化、宗教、倫理、諺、食物などへの永い
間に渡って影響を与えています。こうやって中国の歴史を知るとその時代のことや文化、
生活、土地、食べ物なども知ることになります。日本は一つの国の中での争いはありま
したが、国自体が幾つもあって戦うことはありませんでした。中国の歴史を私達が知る
ことは意外と意味のある事なのかも知れません。また、中国には大小60種族以上の民
族がいることも多くの日本人は知りません。
―最初の中国史ー
私が最初に読んだ本格的な中国の歴史小説は吉川英治氏が書いた三国志を復刻した分厚
い百科事典のような一冊でした。私が中学生だった頃ですので、もう60年前です。
中国の歴史物の特徴は何度も言いますが、登場人物が多過ぎて名前すら覚えられないば
かりか、誰が誰だったか分からなくなることです。名前は漢字ですが、日本の漢字では
使われない漢字が多いのでやがて忘れてしまいます。
次が戦さの兵数です。中国では50万、100万と桁数が違いです。当初は嘘だろうと
思いましたが、日本へ伝わった有名な故事も出て来たりすると、信憑性が上がります。
三国志でも劉備玄徳が諸葛孔明を自軍に迎い入れる為に孔明の住む人里離れた住まいを
三度も訪問した「三顧の礼」もそうです。孔明自身も劉備玄徳を自分が望む人物か否か
試しているようでした。
諸葛孔明は天文学、占星術、易、史書、兵法に通じており、自分が死んでも生きている
ように敵軍が思う程の知恵者です。10万本の矢を一晩で準備したり、風向きが変わる
時刻を予想して手を打ったりと私には天才だと思わせる人物でした。武力よりも人徳を
重視する人物だったと思いました。
また、最近読み終えた「項羽と劉邦」では秦時代末期に生まれた「馬鹿」、「四面楚歌」
の由来を知り、興味深かったものです。馬鹿の文字は確かにどうして馬と鹿なのかと思
いますが、その由来が秦の始皇帝の亡き後を継いだ2代目の皇帝の胡亥(こがい)に対
し、悪名高い宦官の趙高が自分の意のままに胡亥を操りたいので、ある時に無条件に自
分を信じ込ませる手を打つ訳です。
胡亥の前にある日、一頭の鹿を連れて来て見せ、これは馬でございますと趙高が言い張
り、胡亥は鹿であろうと言ったのに、趙高が言い放った馬ですと言葉に反論した側近達
全員を後で殺し、確かに馬ですと言った側近だけを残したのです。皇帝は皆がそう言う
のでやがて馬だったんだと言う訳です。こうして趙高は自分の言いなりに皇帝を変えて
行ったのです。この鹿を馬だと言った話が馬鹿の語源なのです。胡亥は趙高の意のまま
にコントールされ、後年に趙高に殺されてしまいます。
一方、「四面楚歌」は垓下の戦い(がいかの戦い)という楚の項羽(戦さで負けない天
才)と漢の劉邦(徳はあるが戦さではずっと項羽に負けている)が、最後に戦った戦さ
から来ています。劉邦軍は30万、項羽軍は10万です。夜に項羽は楚の歌が流れてい
るのを聞き、もはやそこまで楚軍は敵の陣に捕らわれたのかと悟り、最後にに残った兵
達と別れの宴を開いたのです。この歌を歌わしたのは劉邦軍の参謀の張張らの策略でし
た。この歌を聞いて項羽はそ個まで周囲は囲まれてしまったのかと憂い、いよいよ自分
の最後の時が迫ったと運命を悟った故事です。
項羽はこの時に詩を残し、「戦さで負けたのではなく、天の定めに負けたのだ」と詠ん
でいます。項羽は実際の戦さで負けたのではなく、天が自分の運命を定めたと思ったの
です・・項羽の愛しい虞美人は事実上の妻だった女性ですが、日本ではひなげしを別名
で虞美人草と言います。虞美人は項羽の前で舞を舞った後に自害し、項羽は見事に自害
し、その身体を劉邦軍に幾つにも分断されて劉邦に検分して貰い、それぞれに領地を貰
ったのです。天才的な武人だった楚の将軍の血筋の最後でした。
ー私と歴史の関係ー
私がそもそも歴史に興味を持ったのは生まれ育った環境が強く影響しています。私の故
郷は歴史そのものなのです。こう書くと京都ですか?と思われる方が多いと思いますが、
実は鹿児島市なのです。戦国時代や幕末から明治にかけて名を残した人材が多く輩出さ
れた土地柄ですが、私自身も子供時代から周囲の大人達に先人達の話をよく聞かされて
育ちました。ですから、どうしても意識せざるをない程に先人達の話が染み着いている
のです。例えば通った中学校や高校はそんな偉人達の伝説が生きているような地域です。
中学には先人達の遺訓を尊び、故事に因んだ行事もありました。西郷隆盛や大久保利通
が生まれ育った地域は学校からも近く、校庭の隅には顕彰碑が建てられていました。
中学校の地名も高麗町という町名で、由来はどうも「文禄慶長の役」の時に日本の大名
達が朝鮮から帰国する際に大勢の朝鮮の人達を拉致して来たのです。その人達が一時的
に住んでいた地域が高麗町だったようです。この文禄慶長の役では多くの朝鮮の儒学者
や陶工が拉致されて日本へ連れて来られています。名だたる日本の焼き物の里にはそう
した人達が多く住みついた地域です。薩摩では朝鮮の陶工の代表は代々「沈壽官」とい
う名前を継承させられています。今も継続は続いています。その人達が薩摩焼の元祖で
す。萩も伊万里も唐津も同様です。この拉致されて来た陶工の話がドキュメント映画に
もなっていて「ちゃわんやのはなし」という映画です。私も観ました。年配の観客が目
に付きました。沈壽官氏も出演されていました。この人達の先祖の作品が1867年の
パリ万博へ日本から薩摩藩と徳川幕府と佐賀藩が工芸品や陶器や武具などを出展してい
ます。薩摩焼の15代当主の沈壽官氏は私の高校の先輩にあたるという奇縁まで私には
繋がっています。更には司馬遼太郎氏と15代目沈壽官氏とは深い親交があったようで
す。実際に司馬氏の一冊の本になっています。「故郷忘じがたく候」という単行本です。
―故郷の偉人達ー
さて、時代は限られますが、鹿児島から多くの著名人が輩出されました。その多くが割
と狭い地域から固まって輩出されています。それは当時の薩摩では「郷中教育」という
薩摩独自の教育システムがあり、幼少時代から地域の年長者によって色々な指導育成が
行われており、そこでの影響が大きいと思います。私の子供時代にも郷中教育ではなか
ったのですが、地域毎の集まりがあり、年長者が下級生の面倒をみる活動が行われてい
ました。更には周囲の大人達からもよく言われていた幾つかの戒めがあり、これは今で
も憶えて少しは沁みついています。
「勇気を持て」、「嘘を言うな」、「年長者を敬え」、「弱い者いじめするな」、「議を言うな」
といった教えです。議とは理屈とか文句を言うなという意味です。理論理屈よりも勇気
や実行力が重視されている土地柄です。口先が達者な人は鹿児島ではどちらかと言うと
敬遠されます。勇気と行動を伴ってこそ信頼される訳です。また、子供の喧嘩に親は不
介入が当たり前でした。今はどうかは分りません。そんな環境でしたので私もそんな育
ち方をしたと思います。
また、島津藩では他藩では見られない剣法があり、示現流という剣法なのですが、相手
を一振りで肩口から袈裟切りする剣法で二の太刀がありません。居合切りに近いのです
が、実戦向け剣法だと思います。敵味方が入り混じった混戦した戦場では強い剣法です。
新選組が注視していた桐野利秋(別名人切り半次郎)はその達人です。練習はただ一心
になって左右上段から下へ打ち下ろす練習ばかりです。また、打ち下ろす際に大きな奇
声を発するので相手は気持ちが引いてしまいます。桐野利秋は西郷さんの近くにいつも
いた人物です。明治天皇の近衛隊にも属していた人です。最後は西郷さんの下野に従っ
て共に西南の役に参加した人です。最後の戦地の城山では頭に銃弾を受けて亡くなって
います。墓は西郷さんの直ぐ近くにあります。
―墓地への遠足ー
こんな土地柄だったこともあり、普通と違った実話もあります。中学生の時に遠足があ
り、その行き先が南洲墓地という西南の役で亡くなった西郷軍の人達が眠る墓地が目的
地でした。墓地へ遠足など私も聞いた事がありませんでしたが、その墓地に葬られてい
る人の子孫もいたようで墓の掃除をしている生徒もいたのです。また、墓の中には東北
から西南の役へ参加した少年達もいて、そこに祀られています。その理由は戊辰戦争時
に庄内藩へ対する処遇が軽かったことが西郷隆盛に意向だったことが分かり、それ以降
西郷の話をまとめたりして少年達が西郷の元に派遣され、慕われた経緯があります。
少年達は十代前半の人達です・・
数ある墓石はいずれも東を向いて立てられており、目の前には桜島が見えます。更に、
はるかその向こうには東京があり、皇居があり、明治天皇がいたのです。西郷隆盛と明
治天皇には強い感情があったようで、明治天皇と西郷さんが相撲をした際も西郷さんは
天皇に手加減しなかったそうです。明治天皇はそんな西郷さんが気に入っていたような
のです。後年に明治天皇は西郷は自分のことを親身になって育ててくれたと述懐したそ
うです。西郷さんなりの思いが込められていたと思います。明治天皇ご自身も自分の立
場がよく分かっていたと思います。後年、西郷さんが恩赦で罪が許された際には明治天
皇は西郷さんを懐かしく思い出されたそうです。幕府を倒した後の国作りの象徴は紛れ
もなく天皇だったので、このことを明治天皇自身は誰よりも強く自覚されていたと思い
ます。
多くの人々の命が代償となって出来上がったのが明治政府です。文明国に追いつき堂々
とした日本国を作るのが最優先だったのですが、その裏では不満を抱えた武士達が全国
に居た訳で、西郷さんはその人達と運命を共にしたと私は考えています。新しい世の中
は幼友達で西洋を歴訪した大久保利通に託したと私は思っています。私が生まれ育った
故郷はこんな人達が育った場所なのです。そんな先人達の思いがどこか私にも少しはあ
るような思いがします。私にとって歴史とは近いのです。関ヶ原の島津義弘公も同じで
す。薩摩には薩摩の想いや伝統や正義が残っているように感じます。
―桜島への愛着ー
もう一つ鹿児島市の出身者には一つ大きな思いの対象があります。動物でもなく、文化
施設でもなく、人でもなく、住んでいる人々へは時に大きな迷惑をかける存在です。そ
れは今も噴煙を上げ続ける桜島です。南風が吹けば噴煙は鹿児島市内へ流れ、ひどい時
には昼間でさえ前が見えなくなり、目が痛くて開けられなくなったりします。学校の屋
外プールの底は真っ黒になり、市電の電車は走りながら火花を散らします。噴火は多い
年には年間に軽く100回を超えます。正に生きた火山です。58万人の人口を抱える
鹿児島市の真正面に錦江湾という穏やかな海を隔ててドーンと立っているのです。フェ
リーではたったの15分ですし、市内からの距離は4キロのしかありません。空港の滑
走路でも長い所はそれ位の長さです。
こんな街ですが、故郷へ帰ると誰もが必ず桜島を見上げます。見ないと故郷の実感が湧
きません。どうしても否応なく市内から見えるのが桜島なのです。名前は桜ですが、そ
んな優しい、大人しい、可愛い山ではありません。本当はこんな近くで普通に生活して
いること自体がおかしいのかも知れません。車も降灰で化学反応を起こし、放置すると
腐食します。雨が降ればワイパーはジャリジャリと音を立ててガラス面を痛めます。
それでもです。戦国時代でも、幕末時代でも、今でもです。住んでいる人達は必ず桜島
を見ます。一日に何回も山肌の色が変わります。雄々しい時、優しい時、機嫌の悪そう
な時、雪を被った時、夜に火柱が見える時、ドーンと大砲のような音を出す時・・
この桜島がないと、鹿児島の人はどこか力が抜けたようになると思います。昔からそこ
にある火山なのです。その存在感は100%以上です。西郷さんも大久保さんも東郷さ
んも皆が見ていたであろう山なのです。鹿児島市の中心だろうと思います。
ー史跡はそこら中にー
時代小説では本を読み終えて実際にその場所を歩いてみたいと思うことがあります。こ
れも楽しみの一つです。例えば関が原の跡地へは西軍の陣地跡を丸1日かけ、東軍の陣
地跡も丸1日かけて歩き回りました。一人で歩いていると自然と昔を思い始めてその当
時にそこにいるような気持ちになります。東西で15万人の兵がここに集まり、死闘を
繰り拡げたのかと思うと、生死をさまよった人々の気持ちがいかばかりだったか、胸が
締め付けられそうな気分になりました。特に西軍跡地を回った日は雨が降っていて、霧
か靄が出ていてうす暗い林の中を一人で歩いていると、今にも落ち武者が出て来そうな
気配を感じたりして、思わず後ろを振り返ったりしました・・
京都の伏見へ出掛けた時には坂本龍馬の常宿だった寺田屋へ寄り、部屋内に血痕が残っ
ていて当時の武士が生死を賭けた様子を思ったりしました。京都の高台寺では豊臣秀吉
の奥方だった北政所が恐らく毎日拝んでいたであろう秀吉の木像らしきものがあり、夫
婦の深い絆を感じました。秀吉夫婦にしか分からない互いの絆があったことと思います。
佐賀では名護屋城跡へ行き、遥か400年前にその地から大挙して海を渡り、朝鮮へ上
陸して遠くはロシア国境近くまで行軍した大名達へ想いが拡がりました・・巨大な城が
ここに築かれていたとは思えない跡地で、天下取りの命令一つで全国の大名達が朝鮮半
島を目指して出陣して行った往時を感じました。天下人の権力は凄いものです。
もし、今も名護屋城が残っていれば相当に大規模な城郭だったと思います。何しろ規模
は大阪城に匹敵する規模だったそうです。
このように歴史の跡を巡ることは先人達が実際にそこにいた場所を歩く訳でどうしても
当時に想いを馳せることになります。この気持ちは独特なものです・・
ー最後にー
私の話は自分本位で書き方も順序も不統一で読み辛いと思います。改めてご容赦下さい。
私はその時代の人の生き様や想いに強く興味を引かれます。自分がその時に生きていた
ら、どんな生き方を選んでいたかなどと妄想もします。歴史は昔の話が多く本当か否か
は定かでないことも多い。また、私がその場にいたら逃げ回っていたか、戦いに身を投
じていたか、ひょっとしたら歴史のどこかに残るような活躍をしたかも知れないと妄想
もしてしまいます・・
私は今という平和な時代に生きていますが、私にも祖先がいて少なくともその時代、時
代で祖先の誰かが生きていた訳です。そんな祖先の事も考えると自分のルーツもある訳
で、私が今あるのも祖先がいたからこそであり、必ず何らかの歴史で繋がっていると思
うのです。決して昔の事というだけでなく、自分探しの延長として考えると結構、面白
いものだと思います。
私の父は太平洋戦争で中国大陸へ従軍していました。兵隊時代の写真を見た時は不思議
な気がしました。セピア色の写真に若い時の父達が軍服を着て立っているからです。
生と死が隣り合わせた戦場へ出征していた当時の写真でしたが、その時には実感のない
遠い世界に感じましたが、今の自分の年齢を考えると、父が戦争に行った時にはどんな
気持ちだったのか聞いたことがありません。父も生死の境を生きて帰還した人です。
今にして思えば、もっといろいろ話をしておけば良かったと思います・・
歴史とは大きく言えば、周囲の姿であり、自分の姿でもあると思います。そしていつか
必ず自分にも人生が終わる時が来るということです。
歴史とは自分自身を見つめ直すきっかけにもなるものだと私は思っています。
司馬遼太郎さんがこんな文面を残しています。
「私はなんと幸せな人生を歩んでいるんだろうか。私には今だけでなく過去にもたくさ
んの友人や友達がが一杯います。」と。(私流の意訳です。原文を憶えていませんので)
こんな生き方は素晴らしいし、羨ましいと思います。
私も最後までやりたいことをやって精一杯生きてやろうと思います。
人生は二度目はありません。生きていることは間違いなく死に近づいていることです。
だから、やりたい事は一生懸命にやってみようと。
一回しかない人生を一生懸命に生きて行きます。
感謝。
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