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歴史を読む 第298号

  • 2 日前
  • 読了時間: 17分

私は若い頃から歴史や地理が好きで、日本と周辺国についても興味があります。周辺国

とは中国と韓国であり、これらの国とは貿易、文化、文字、政治、宗教、食物、服装ま

で関係が深いと思います。しかし、どの国にも歴史や時代の節目があり、国のリーダー、

政治、社会制度、内紛、周辺国との軋轢、治世期間など実に様々です。時代の変遷につ

いては真実は各国でも分かり難いのですが、国のリーダーと周囲を取り巻く勢力やその

反対派などとの争いが多く、それが国家盛衰と新国家誕生へ繋がっています。

私は歴史以外にも経営者や科学技術も好きで、それらも好んで読んでいます。それ以外

にも理解度は低いですが、宇宙に関する話にも強い関心があります。現実離れしていて

内容も難し過て分からない事が多いのですが、それが逆に興味を飽きさせないので分か

らないなりに読んだりします。科学者は古来からいろいろ考えていることを知らされて

興味先行で内容は分からなくても読んだりしています。今は量子宇宙論も何か面白そう

です。私にとっては歴史も宇宙もよくは分からなくても知りたいという欲求は同じで興

味が尽きないのです。こういう訳で今回は少し長い話になります。


さて、私の読書時間ですが殆どが仕事先との往復の電車内が中心です。往復で1時間も

かからない時間なのですが、電車内は私の”個室時間”で読書密度が高いのです。大勢の

中の”個人図書室”になるのです。これほどに集中出来る場所はなかなか他にはありませ

ん。毎日読み進むページ数は知れていますが、亀さんの歩きみたいなもので、少しずつ

確実に進むのです。時間はかかってもいつかはゴールへ辿り着きます。習慣になるとこ

ういった時間は苦ではなくなります。続ければ分厚い本でもいつか最後には読み終える

のは事実なのです。飽きないで読み続けることです。


ー中国への興味ー

さて、私は日本の歴史では戦国時代と幕末が好きですが、お隣りの中国の歴史は日本よ

りも古くからあり、内容も面白くて興味が尽きません。半面、読み辛いことも事実です。

中国の歴史は日本に比べて政治、文化、宗教、食物、民族、周辺国などの要因が多く、

中国から日本へ伝えられたものも多く、川に例えると日本の上流に当たるのが中国では

ないかなと私は思います。

それほど古来から栄えていた国であり、国土も日本の25,6倍と広いし、しかも国土

の中心部分に黄河と揚子江という長大な大河が流れており、その周辺んみは広大な穀倉

地帯が拡がっています。中国から西ヨーロッパまで続くシルクロードもあり、異国との

交易も盛んでしたし、中国が持つ文化や多様性は日本にも見られない魅力もありました。

時代が変われば権力者や政治体制も違い、首都も宮殿もあちこちに移りました。現在の

首都は北京ですが、日本では関西に多く、明治以降はずっと東京です。また、中国の宮

殿の大きさや規模、働く宦官や役人の数も多く、それが規模にも繋がっていると思いま

す。


―中国の歴史物ー

ところで歴史に出て来る戦いの規模が日本と中国では大きく異なります。日本の関ヶ原

の戦いでは東軍・西軍を合せて15万人程でしたが、「項羽と劉邦」(司馬遼太郎著)で

は、彭城の戦い(ほうじょうの戦い)では劉邦軍は56万、迎え撃つ項羽軍はたったの

3万人だったと書かれてありました。結果は項羽軍が勝ったのです。こういう戦さは信

じられない感じを受けるの日本人の感覚です。両軍合わせて60万人規模の戦さで、項

羽は生涯で負けたことがない強さを誇るのです。逆に劉邦は項羽へ一度も勝ったことが

ありません。項羽は正に戦いに滅法強いのですが、性格が気短かで怒ると20万の敵軍

を生き埋めにするなど残酷な一面も持っている楚軍の大将です。逆に劉邦は戦さには強

くないが自分を補ってくれる人材に恵まれた性格の持ち主なのです。


この項羽と劉邦については前漢時代に司馬遷という史実を書き残す役人だった司馬遷と

いう人が書き上げた歴史書「史記」に書かれてあるのです。時代は前漢時代ですから紀

元前206年~紀元8年という、日本では考えられない昔の話なのです。また、中国の

歴史物では登場人物が多く名前も憶えられない程で、その上移動する距離も広く日本人

にはピンと来ない感覚もあります。ただ、面白いのは日本でも有名になった諺も出て来

るので諺のルーツを知った時には驚きと同時に中国での背景を知ることが出来ます。


中国と日本の歴史は異なる背景が幾つもあり、まずは国土の広さや人口の多さ、民族の

多さ(大小を含めると60族余り)、そして国境や周辺国の異民族もいます。例えば、

秦を興した秦の始皇帝は異民族の侵入に備えて万里の長城を造らせましたが、その規模

はとてつもなく大きく、工事も凄かっただろうと思います。何しろ山の上でしかも機材

も乏しい時代です。多くの人手に頼り、しかも無報酬だったのは秦へ対する不満の背景

になったことは間違いありません。未完成で終わった宮殿の阿房宮や始皇帝の陵墓、有

名な兵馬俑も大勢の人民を無償で働かせて築いたものです。規模や工数や年数も桁外れ

です。


中国の歴史に登場する人物の多さ、戦場の移動距離、兵馬の数、戦術の奇想天外さ、こ

んな話が日本とは大きく異なります。日本へ伝わった文化や諺などもそれらの歴史の中

に出て来るので成程そうかあと驚くこともあります。中国では政権が変われば、首都も

変わるし、土地の広さも兵馬の数も日本とは規模が違います。登場人物の名前だけでも

似た人も多く覚え切れません。使われている漢字も日本で使われていない難しい漢字も

多く、しかも途中で忘れてしまうほど話に奥行きがあります。

中国から日本への影響も多く、文字、政治、文化、宗教、倫理、諺、食物などへの永い

間に渡って影響を与えています。こうやって中国の歴史を知るとその時代のことや文化、

生活、土地、食べ物なども知って行くことになります。


―最初の中国史ー

私が最初に読んだ本格的な中国の歴史小説は吉川英治氏が書いた三国志を復刻した分厚

い百科事典のような一冊でした。私が中学生だった頃ですぼで、もう60年前の話です。

中国の歴史物の特徴は何度も言いますが、登場人物が多過ぎて覚えられないばかりか、

誰が誰だったか分からなくなることです。名前は漢字ですが、日本の漢字では使われな

い漢字が多いので忘れてしまうのです。

その次が戦さの兵数の多さです。中国では50万、100万と桁違いです。当初は嘘だ

ろうと思いましたが、日本へ伝わった有名な故事も出て来たりすると信憑性が高くなり

ます。三国志でも劉備玄徳が諸葛孔明を自軍に迎い入れる為に孔明の住む人里離れた住

まいを三回も訪問した「三顧の礼」もそうだと思いました。孔明自身も劉備玄徳を自分

が望む人物か試しているようでした。

諸葛孔明は天文学、占星術、易、史書、軍略に通じており、死んでも自分が生きている

と敵軍に思わせる程の知恵者でした。10万本の矢を一晩で用意したり、風向きが変わ

る時刻を予想したりと、」私は当時は天才だと思いました・・


また、今読んでいる「項羽と劉邦」では秦時代末期に生まれた「馬鹿」、「四面楚歌」の

単語の由来を知り、面白かったです。馬鹿の文字は確かにどうして馬と鹿なのかと思い

ますが、その由来がその中に出ており、秦の始皇帝の亡き後を継いだ2代目の皇帝であ

胡亥(こがい)に対して悪名高い宦官の趙高が自分の意のままに、胡亥を操りたいの

で無条件に自分を信じるように仕込んで行くのです。胡亥の前にある日一頭の鹿を連れ

て来て見せてこれは馬ですと言い張り、それに反する言葉を発した側近達全員を後で殺

し、それは確かに馬ですと言った側近だけを残したのです。こうして趙高は自分の言い

なりに皇帝を変えて行ったのです。裸の王様と同じです。鹿を馬だと言った話が馬鹿の

語源になったのです。胡亥は趙高の意のままにコントールされ、後年に趙高に殺されて

しまうのです。


一方、「四面楚歌」は垓下の戦い(がいかの戦い)という楚の項羽(戦さで負けない天

才)と漢の劉邦(徳はあるが戦さではずっと項羽に負けている)が、最後に戦った戦さ

です。その中で劉邦軍は項羽軍を取り囲んで項羽の国元である楚の歌を大勢に歌わせた

のです。それを聞いた項羽はそれ程までに楚人は負けて捕まったのかと憂い、いよいよ

自分の最後の時が来たと思ったという故事です。

項羽はこの時に詩を残し、「戦さで負けたのではなく、天の定めに負けたのだ」と詠ん

でいます。実はこのその国の大合唱は劉邦軍の心理作戦だったのです。項羽は実際の戦

さで負けたのではなく、楚の人民に負けたと思ったのです・・

項羽の愛しい虞美人は事実上の妻だった人ですが、日本ではひなげしを別名で虞美人草

と言いますが、虞美人は項羽の前で舞を舞った後に自害し、項羽も死に際は見事に自害

し、その身体を劉邦軍に幾つにも分断され身を晒したのです。天才的な武人だった人の

最後だったと言えます。


ー私と歴史の関係ー

私がそもそも歴史に興味を持ったのは生まれ育った環境が強く影響しています。私の故

郷は歴史そのものの街です。こう書くと京都ですか?と思われる方が多いと思いますが、

実は鹿児島市なのです。戦国時代や幕末から明治にかけて名を残した人材が多く出た土

地ですが、私も子供時代から周囲の大人達に先人達の話をよく聞かされて育ちました。

だから、どうしても意識せざるをない程に先人達の話が染み着いています。例えば通っ

た中学校や高校はそんな偉人達の伝説が生きているような地域でした。中学には先人達

の遺訓を尊び、故事に因んだ行事すらありました。西郷隆盛や大久保利通が生まれ育っ

た地域が学校からは近く、校庭の隅にも顕彰碑が建てられていました。中学校の地名も

今でも高麗町という町名で、由来はどうも「文禄慶長の役」の際に日本の大名達が朝鮮

から帰国する際に大勢の朝鮮の人達を拉致して来たのです。その人達が一時的に住んで

いた地域が高麗町だったようです。この文禄慶長の役では多くの朝鮮の儒学者や陶工が

拉致されて日本へ連れて来られています。名だたる日本の焼き物の里にはそうした人達

が多く住んだようです。薩摩では拉致された朝鮮の陶工の代表は代々「沈壽官」という

名前を継承させられています。今も継続は続いています。その人達が薩摩焼の元祖です。

萩も伊万里も唐津も同様です。この拉致されて来た陶工の話がドキュメント映画になっ

ていて「ちゃわんやのはなし」というドキュメンタリー映画です。私も観ました。

沈壽官氏も出演されていました。この人達の先祖の作品が1867年のパリ万博へ日本

から薩摩藩と徳川幕府と佐賀藩が工芸品や陶器や武具などを出展しています。薩摩焼の

15代当主の沈壽官氏は私の高校の先輩にあたるという奇縁まで繋がっています。更に

司馬遼太郎氏は15代目沈壽官氏と親交があったそうです。


―故郷の偉人達ー

さて、鹿児島から時代は限られますが、多くの著名人が輩出されました。その多くが固

まった地域から出ているのですが、当時の薩摩では「郷中教育」という薩摩独自の教育

システムがあり、幼少時代から地域の年長者によって色々な指導育成が行われており、

そこでの影響が大きいと思います。私の子供時代には郷中教育はなかったのですが、地

域毎の子供会はあり、年長者が下級生の面倒をみる活動が行われていました。それに周

囲の大人達からもよく言われていた幾つかの戒めがあり、これは今でも憶えています。

「勇気を持て」、「嘘を言うな」、「年長者を敬え」、「弱い者いじめするな」、「議を言うな」

といった教えです。議とは理屈とか文句を言うなという意味です。理論理屈よりも勇気

や実行力が重視される土地柄なのです。口先が達者な人は鹿児島ではどちらかと言うと

敬遠されます。勇気と行動を伴ってこそ尊敬される訳です。また、子供の喧嘩に親は不

介入が子供時代は当たり前でした。そいう環境でしたので私もそんな育ち方をしたと思

います。

また、島津藩では他藩では受け入れられない剣術もあり、示現流という剣法なのですが、

相手を一振りで肩口から袈裟切りする剣法で、二の太刀がありません。居合切りに近い

のですが、実戦向け剣法だと思います。敵味方が入り混じった混戦した戦場では効力の

ある剣法です。新選組が注視した桐野利秋はその達人です。練習ではただ一心に左右上

手から下へ打ち下ろす練習ばかりを続けるのです。また、打ち下ろす際に大きな奇声を

発するので相手は気が引いてしまいます。桐野は西郷さんの近くにいつもいた人物です。

西南の役では城山で頭に銃弾を受けて亡くなっています。墓は西郷さんの近くです。


―墓地へ遠足だって?ー

こんな土地柄だったこともあって変わった話もあります。中学生の時に遠足があり、そ

の行き先が南洲墓地という西南の役で亡くなった西郷軍の人達が眠る墓地だったのです。

墓地へ遠足など私も聞いた事が行ったこともなかったのですが、その墓地に葬られてい

る人の子孫もいたようで墓を掃除をしている生徒もいたのです。墓の中には東北から西

南の役へ参加した少年達も多く、そこに祀られていました。西郷さんを慕ってはるばる

鹿児島まで来た享年十代前半の少年達です。墓石はいずれも東を向いて立てられており、

目の前には桜島がそびえているのです。更に、はるか向こうには東京があり、皇居もあ

り、明治天皇がいた場所です。西郷隆盛と明治天皇には強い感情があったようで、明治

天皇と西郷さんが相撲をした際でも西郷さんは天皇に手加減しなかったそうです。明治

天皇はそんな西郷さんが気に入っていたようなのです。後年に明治天皇は西郷は自分の

ことを親身になって鍛えてくれたと述懐したそうです。西郷さんなりの思いが込められ

ていたと思います。明治天皇ご自身も自分の立場がよく分かっていたと思います。後年、

西郷さんが恩赦で罪が許された際には明治天皇は西郷さんを懐かしく思い出されたそう

です。幕府を倒した後の国作りの象徴は紛れもなく天皇だったので、このことを明治天

皇自身は誰よりも強く自覚されていたのだと思います。

そんな状況下で西郷隆盛は死んでいった訳です。西郷の死を知った大久保利通は慟哭し

ていたそうです。幼い頃から一緒に遊び、一緒に学び、助け合い支え合った二人です。

多くの人々の命が代償となって出来上がったのが明治政府です。文明国に追いつき堂々

とした日本国を作るのが最優先だったのですが、その裏では不満を抱えた武士達が全国

に居た訳で、西郷さんはその人達と運命を共にしたと私は考えています。新しい世の中

は幼友達で西洋を歴訪した大久保利通に託したと私は思っています。私が生まれ育った

故郷にはこんな人達が育った場所なのです。そんな先人達の思いがどこか私にも少しは

残っている気がします。私にとって歴史とは近い存在です。関ヶ原の島津義弘公も同じ

です。薩摩には薩摩の思いが残っているように感じます。


―桜島への愛着ー

もう一つ鹿児島市の出身者には一つ大きな思いの対象があります。動物でもなく、文化

施設でもなく、人でもなく、住んでいる人々へは時に大きな迷惑をかける存在です。そ

れは今も噴煙を上げ続ける桜島です。南風が吹けば噴煙は鹿児島市内へ流れ、ひどい時

には昼間でさえ前が見えなくなり、目が痛くて開けられなくなったりします。学校の屋

外プールの底は真っ黒になり、市電の電車は走りながら火花を散らします。噴火は多い

年には年間に軽く100回を超えます。正に生きた火山です。58万人の人口を抱える

鹿児島市の真正面に錦江湾という穏やかな海を隔ててドーンと立っているのです。フェ

リーではたったの15分ですし、市内からの距離は4キロのしかありません。空港の滑

走路でも長い所はそれ位の長さです。

こんな街ですが、故郷へ帰ると誰もが必ず桜島を見上げます。見ないと故郷の実感が湧

きません。どうしても否応なく市内から見えるのが桜島なのです。名前は桜ですが、そ

んな優しい、大人しい、可愛い山ではありません。本当はこんな近くで普通に生活して

いること自体がおかしいのかも知れません。車も降灰で化学反応を起こし、放置すると

腐食します。雨が降ればワイパーはジャリジャリと音を立ててガラス面を痛めます。

それでもです。戦国時代でも、幕末時代でも、今でもです。住んでいる人達は必ず桜島

を見ます。一日に何回も山肌の色が変わります。雄々しい時、優しい時、機嫌の悪そう

な時、雪を被った時、夜に火柱が見える時、ドーンと大砲のような音を出す時・・

この桜島がないと、鹿児島の人は抜け殻になると思います。力が出なくなります。昔か

らそこにある火山なのです。存在感は100%以上です。西郷さんも大久保さんも東郷

さんも皆が見ていたであろう山なのです。鹿児島市のシンボルなのです。


ー史跡はそこら中にー

時代小説では本を読み終えて実際にその場所を歩いてみたいと思うことがあります。こ

れも楽しみの一つです。例えば関が原の跡地へは西軍の陣地跡を丸1日かけ、東軍の陣

地跡も丸1日かけて歩き回りました。一人で歩いていると自然と昔を思い始めてその当

時にそこにいるような気持ちになります。東西で15万人の兵がここに集まり、死闘を

繰り拡げたのかと思うと生死をさまよった人々の気持ちがいかばかりだったか、胸が締

め付けられそうな気分になりました。特に西軍跡地を回った日は雨が降っていて、霧か

靄が出ていてうす暗い林の中を一人で歩いていると、今にも落ち武者が出て来そうな気

配を感じたりして、思わず後ろを振り返ったりしました・・


京都の伏見へ出掛けた時には坂本龍馬の常宿だった寺田屋へ寄り、部屋内に血痕が残っ

ていて当時の武士が生死を賭けた様子を思ったりしました。京都の高台寺では豊臣秀吉

の奥方だった北政所が恐らく毎日拝んでいたであろう秀吉の木像らしきものがあり、夫

婦の深い絆を感じました。秀吉夫婦にしか分からない互いの絆があったことと思います。

佐賀では名護屋城跡へ行き、遥か400年前にその地から大挙して海を渡り、朝鮮へ上

陸して遠くはロシア国境近くまで行軍した大名達へ想いが拡がりました・・巨大な城が

ここに築かれていたとは思えない跡地で、天下取りの命令一つで全国の大名達が朝鮮半

島を目指して出陣して行った往時を感じました。天下人の権力は凄いものだったのです。

もし、今も名護屋城が残っていれば結構大規模な城郭だったと思います。何しろ規模は

大阪城に匹敵する規模だったようです。

このように歴史の跡を巡ることは先人達が実際にそこにいた痕跡を歩く訳で当時に想い

を馳せることになるのです・・


ー最後にー

私の話は自分本位で書き方も順序も不統一で読み辛いと思います。改めてご容赦下さい。

私はその時代の人の生き様や想いに強く興味を引かれます。自分がその時に生きていた

ら、どんな生き方を選んでいたかなどと妄想もします。歴史は昔の話が多く本当か否か

は定かでないことも多いです。また、私がその場にいたら逃げ回っていたか、戦いに身

を投じていたか、ひょっとしたら歴史のどこかに残るような活躍をしたかも知れないと

妄想もしてしまうのです。

私は今という平和な時代に生きていますが、私にも祖先がいて少なくともどこかで生き

ていた訳です。そんな祖先の事を想像しながら自分のルーツもある訳です。私が今ある

のも祖先がいたからこそであり、必ず何らかの歴史で繋がっていると思います。


私の父は太平洋戦争で中国大陸へ従軍していました。兵隊時代の写真を見た時は不思議

な印象がしました。セピア色の写真に若い時の父達が軍服を着て立っているからです。

生と死が隣り合わせた戦場へ出征していた当時の写真でしたが、その時には実感のない

遠い世界に感じましたが、今の自分の年齢を考えると父が戦争に行った時にはどんな気

持ちだったのか聞いたことがありません。父も生死の境目を生きて来た人でした。

今にして思えばもっといろいろ話をしていれば良かったと思います・・


歴史とは大きく言えば、周囲の姿であり、自分の姿でもあると思います。そしていつか

必ず自分の人生も終わる時が来るということです。

歴史とは自分自身を見つめ直すきっかけにもなるものだと私は思います。

司馬遼太郎さんがこんな文面を残しています。

「私はなんと幸せな人生を歩んでいるんだろうか。私には今だけでなく過去にもたくさ

んの友人や友達がが一杯います。私は何と幸せな人間だろうと思います。

(私流の意訳です。原文を憶えていませんので)

こんな生き方は素晴らしいし、羨ましいと思います。

私も最後までやりたいことをやって精一杯生きてやろうと思っています。

人生は二度とありません。生きていることは死に近づいて間違いなく近づいていることです。

だから、やりたい事は一生懸命にやろう。

一回しかない人生を一生懸命に生きて行きます。しょうよと。

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