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ご近所会 第301号

7 時間前
読了時間: 12分

25年に及んで書き続けて来ました本コラムもいよいよ今回が最終回となりました。読者の

皆様方には深く感謝申し上げます。誰にでも続けていたことを終える時が来る時があります

が、私は淡々とした心境で本コラムを終わりたいと思っています。人間の一生はいつかは必

ず終焉の時がやって来ます。今回が最終回ですので、私の少年時代から高校を卒業して上京

するまで暮らしていた頃の懐かしい頃の話をさせて頂きます。このことが自分にも一つの区

切りになると思ったからです。それはもう60年以上前の話から始まります。

私の育った故郷は九州の南端の鹿児島市です。大きな大きな桜島がデーンと向こう側に座り

時々、灰色の噴煙を上げるどこにもない光景が当たり前に街で育ちました。いわば桜島なく

して語れない特有の街でした。ドーンと言う大きな音や火柱を出してまるで怒ったような生

きている山です。この山のことはそこで育った人達にとっては怖いとか、恐ろしいとかより

も毎朝見上げる、そこにあって当たり前の活火山でした。


さて、私が育った家は木造の市営住宅で、山の斜面を切り開いて造成した土地へ木造平屋の

二軒を連結した「長屋造り」でした。土地の都合で一軒家もありましたが、多くは2軒長屋

といった全戸数が60戸余りの市営住宅でした。二軒長屋ですので壁一枚で隣家とつながっ

ていました。物音や大声を出すと隣家に聞こえることもありました。まるで江戸時代の長屋

みたいなものでした。間取りは江戸時代とは違い、6畳と4畳半の畳部屋、台所、風呂、ト

イレ、玄関がありました。この家に親子6人で結構永く住んでいました。

今、思い返すと敷地には庭もあり、茄子、胡瓜、トマト、トウモロコシなども栽培したり、

チャボを飼ったりしていました。今も思い出せば自然が近い家でした・・蛇や蜘蛛やトカゲ

など普通によく見かけました。

まだ終戦から10年余り経った頃でしたので、あちこちに戦争の傷跡や子供の数が多かった

ことを思い出します。物が少なくて食べるものすらまだ貧しい時代でした。肉、卵、バナナ、

チョコレートなどは滅多に食べられませんでした。夏になれば扇風機と蚊帳の時代です。

家族全員が6畳間で並んで寝ていました。冬になれば火鉢で暖を取っていました。懐かしい

時代でした。家電製品が普及していく以前の時代でしたが、今思えばいろいろなことが蘇り

ます・・懐かしい、貧しい、それでいてなかなか幸せな時代でした・・


ー当時の生活ー

台所には大きな竈(かまど)が備え付けられていて、毎日、母親がお米を水道水で研ぎ、鉄

製の釜の中に米と水を入れて、その中に手のひらを開いて立てて、指の節目を目安に水量を

計り、木の蓋を釜の上に被せて、最後は竈の中に少量の紙と薪(たきぎ)を置いて、大きな

マッチ棒で火をつけ、ご飯を炊いていました。やがて、大きな湯気が立ちあがり、釜から炊

き上がったお湯が噴き出て、出来上がりを教えてくれていました。釜の中にはおこげもあっ

て、これが美味かったことが脳裏に残っています。

風呂は大きな五右衛門釜に水を入れ、釜の底を薪を燃やしてお湯にしていくのです。鉄釜の

底には板を敷いて湯に浸かるのです。お湯になるまでは1時間ほどはかかったと思います。

私は小学生の頃からお風呂当番をやっていました。薪を割ったり、灰の片づけもやり、結構

上手だったと思います。薪割りは鉈(なた)を使って薪を切っていました。

炊事場には湯沸かし器もなく、冷蔵庫も”冷蔵箱”という上下二段の棚にフェルトが張ってあ

り、上段へ買って来た氷の塊を入れて下段を冷やす方式でした。氷は当然、徐々に溶けて行

く訳です。コンセントもあったのか、なかったのか二股や三股のソケットを使っていました。

我が家で最初に買った家電製品は確か白黒テレビでした。テレビがやって来る日は朝からソ

ワソワしていたのを憶えています。テレビの前では正座で、近所の友達も来て、皆で正座し

観ていました。


その頃が家電時代の幕開けの頃でした。その後は色々な家電製品が出始めました。家事軽減

の製品が先で電気洗濯機、電気冷蔵庫、湯沸かし器、電気釜などが矢継ぎ早に出始めていま

した。最後は電話でしたが、これは難物で申込から開設まで2年はかかるような時代でした。

次第に母親の仕事が楽になり始めて行きましたが、私が思い出す母親の姿とは、背中に妹を

背負いながら家事に精を出す母親の姿です。冬場には両指がアカギレだらけで血が滲んでい

ました。この時代の女性は家事全般が大変な労苦だった時代でした・・


私は子供心に、テレビで”名犬ラッシー”というアメリカの農家を舞台にした画面を観て、ア

メリカの生活水準を夢のように感じました・・特に主人公のジェフ少年と愛犬のラッシー、

お爺さんとお母さんの家族構成ながら、田舎の農場なのに大きな冷蔵庫から大きな牛乳瓶を

取り出すシーンを見て物凄い大きな憧れを感じたのです。私が学校で飲んでいた脱脂粉乳で

もないし、車も牛乳も大きい世界でした・・とても衝撃を受けました。当時の日本人の多く

はそんなアメリカに大きな憧れを持っていたと思います。住んでいる世界が違ったのです。


ー近所との定例会ー

こんな時代でしたが、近所の4軒の父親同士が何かの縁で繋がり、定期的な飲み会を始めた

のです。各家を持ち回りで1、2ケ月に一回の割合で20年間以上は続いたと思います。

題して「定例会」と呼んでいました。子供が大きくなってもその定例会は続きました。

親の大半が公務員だったと思います。このような飲み会は現代でもあるでしょうが、各家持

ち回りで20年以上も続けられたのは、結局は皆さんの馬が合ったからだと思います。

親父さん達の年令も10才も違っていなかったと思います。戦争を体験した人達です。話は

尽きなかったと思います。

定例会は父親達の飲み会だったので母親達からは不満も出たと思います。年代も似たり寄っ

たりの親父さん達でしたが、結局は飲兵衛ばかりだったことが共通点ではなかったろうかと

思います。奥さん達は毎回、準備で大変だったと思います。酒や肴の準備、好き嫌いも気に

しない訳にはいかず、その上自宅の夕食支度もあります。買い出しや下拵えなども大変だ

ったろうと思います。

こんな状況ですから奥さん達は当初は嫌だったと思います。男は勝手だなと思ったに違いあ

りません。楽しかったのは親父さん達だけです。その証拠に我が家では母親が愚痴っている

時がありました。それに焼酎が足りなくなれば酒屋へ行くこともありましたし、自分の家の

夕食も準備して子供達にも食べさせなければならず、その一方では次なら焼酎の準備もやっ

たりと、ずっーと母親達は忙しかったことは間違いありません。


私の田舎では男社会だと昔から言われていますが、本当は男を立てるというか男に恥を掻か

せないという土地柄だったと思います。表面的には男が偉そうにしていますが、実は女性の

肝が据わっていると思います。男は女性の手のひらの上で好き勝手出来ているだけではない

かなと今なら思います。

実際、私の母方の祖母はそういう女性でした。明治生まれで気骨があり、いつも座布団に正

座していて、自分の娘や孫への注意や話に威厳がありました。一方、お爺さんは恐かった印

象しかありません。私は何度も折檻されました。明治生まれの男と女は気骨のある人達が多

いと思います。優しいというより怖い存在でした。威厳があった世代です。飲み会でこまご

ま旦那に言うような女性はダメだと言わんばかりでした・・


ー合同イベントー

親父だけの飲み会だと負い目もあったのでしょうか・・何年かに一回は4家族が集まり、皆

で日帰り旅行や足を伸ばして一泊旅行もしました。自然に子供達も顔見知りになり、互いの

家でも話題になったりしていました。私もその中の家族の親戚の子供と仲良くなりました。

夏休みや冬休みに小学生の頃から遊びに来ていて、私と年齢も同じで野球が好きだった共通

点があり、よく二人でキャッチボールをやっていました。妙に馬が合うのか彼はそうやって

時々は遠方から遊びに来ていました。

その友達から今春、突然に私の携帯へ電話がかかって来ました。何かあったのだろうか?と

思って話を続けていると、執拗に私の名前を確認していたので、少々呆けたのかなと思い、

話を続けていたらキャッチボールの話や宮崎でラクダに乗った話も出て来たので、おそらく

何かの折に思い出し、懐かしくて電話して来たんだろうと思いました。小学生時代からの友

達なので元気に長生きして欲しいです。彼はその家族旅行にも参加したこともあり、何かの

折に懐かしく思い出したのでしょう。人は必ずいつか老いるものです。親戚同士でもこのよ

うな電話は少ないと思います。親の飲み会から拡がった友達です。今は残念ながら4家族の

ご両親は誰もいません・・


ー現代社会ー

今ではこのような隣近所の付き合いは減ったと思いますが、親戚同士でやっている方は多い

のではないでしょうか?・・よく温泉などへ行くと複数家族で来ている場面を見かけること

があります。中には仲の良い家族同士もいらっしゃると思います。キャンプなどはその例だ

ろうと思います。多少の距離感を確保出来るし、近所同士のお付き合いも出来るし、こうい

う例は昔よりも多いのではないでしょうか・・

仮に、皆さんは機会があれば近所の方々と家族ぐるみで定期的な飲み会をやってみたいと思

いますか?・・時代の価値観が変わり、今は自分を優先する時代だと思います。家族間でも

個人主義的な傾向が普通の時代です。一戸建てでも部屋は個室が普通ですし、スマホ、パソ

コン、自転車、着るものも各自の自由です。今は集まりの最小単位は個人優先です。仕方な

く周りにつられるのは本意ではありません。今は人に強要はしない社会です。


私の時代は、まず、物が乏しく、兄弟は多く、何かにつけ競争でした・・親父達の定例会は

年代もそれほど違わず、戦後の日本再生へがむしゃらに働いていた人達です。日本を復興さ

せたいと同じ苦難の時代を懸命に生きた人達です。意識や頑張りや苦労が共有されていたの

だろうと思います。

私の親父は趣味もなく、敢えて言えば仕事が人生だったと思います。家族の繋がりや父親同

士の繋がり、親戚の繋がりが強かった時代でした。飲む以外に繋がりの場が少なかった点も

挙げられます。飲むことが横のつながりの中心だった世代だと思います。戦争と復興に明け

暮れた世代だったのです・・


―開催数ー

この定例会は20年以上も続けられました。子供達は成長し、家を出て、それでもこの集ま

りは続けられました。どんな計算をしても100回以上にはなるかと思います。結構、父親

達にとっても人生の中で大切な稀有な集まりだったに違いありません。子供達でさえ互いの

名前や学年や学校も知っており、バツが悪かったりしたこともあったようですが、普通の知

り合いとはちょっと違う感覚でした。

既に4家族とも父親も母親も亡くなり、子供達自身が50代、60代以上です。互いの近況

は知りませんが、名前や年齢や略歴程度は知っています。Googleで当時の住んでいた地域を

検索して見ているとサイズ感は小さくなっていますが、当時の様子を思い出します・・

あれから60年以上が経ったのです。今はその欠片すら思い出しにくくなっています。


ー始まりがあれば終わりもあるー

4家族のご夫婦が元気なら定例会はずっと続けられたかも知れませんが、それも終わりまし

た。私は地元を出て東京や大阪へ行ったので、その後の様子は分かりません。他の3家の子

供達も順に家を出て行ったと思います。次第にどこかのお父さんの具合が悪いとか、入院し

たとか聞くようになり、やがてその集まりも出来なくなったようです。

人はいずれ、寿命や病気などで出来なくなることが多くなります。ところが誰一親同士は一

人も地元を離れたご夫婦がいないのです。

私の父が亡くなった時、お通夜にその中の知り合いの息子さんが来てくれて、小さい頃から

私も知っていた弟みたいな感じだったので雑談をしていたら、妙な話を言ったのです。

名刺を貰ったら驚きました。市の斎場のトップになっていたのです。その妙な話とは「おじ

ちゃんは自分の所で面倒みたかった・・」と言った言葉です。これほど普通でない親しみの

こもった言葉はないと思いました。斎場は市内に2か所あり、私の父は異なる斎場だったの

です。他人が聞けば妙な話でも小さい頃から顔見知りで知っていたらこそ私は嬉しかったの

です。


ー締めの言葉ー

私は幼年期から高校生までそこに住んでいましたが、隣家に住んでいた家族はお父さんの仕

事の関係で各地へ転勤が多かった方でした。その家には子供が二人いて、お姉さんと弟さん

がいました。そのお姉さんから大きくなって、一通の手紙が我が家に届いたそうです。

手紙にはあちこちにその後も転勤して住みましたが、今は横浜に家を建てて住んでいますと

書かれてありました。その文面内にこんな文章がありました・・

「一番思い出深いのは隣に住んいた私達だった」と。

幼い当時はよく一緒に遊んでいましたし、妹と先方の弟さんは特に仲良くしていました。

幼い頃の思い出は一生消えない思い出として心に染みこんでいるんだなと感じました。

私のキャッチボールをしていた友達も年を重ねるにつれ、その思い出が強くなっていくのは

当たり前かも知れません。

隣家に何年か住んでいた今は横浜にいる方もきっと大事なものが年数を経て鮮やかに蘇って

来たのか知れません。人との繋がりは人生においてチェーンのように繋がっている気がしま

す。例え小さな点であってもその人にとっては大きな心の置石になっていると思います。

私はこのような人生の出会いに心を打たれます・・


小学1年の担任だった津田先生、中学の授業中に職員室へ来て進路相談に来た親父、高校時

代の釣りが大好きだった北原先生、大学で人生の中でも唯一無二の親友だった根本君、バイ

ト先と社会に出た最初で世話になった甲州さん、IT業界に入って感化を受けた大川社長、経

営者になってから仲良くなった橋本社長、そして敬愛する郷土が同じ稲盛和夫さん・・・

人生は学びと反省と行動の織り成す模様のように思います。

永年に亘って有難うございました。

感謝。

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