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  • 執筆者の写真社長

初詣 第270号

新年が明けて早々に体調を壊し、結局は初詣にも行けず、中旬になってからや

っと遠方にある神社へ参拝して来ました。例年なら近くの神社へ詣でるのです

が、今回は奈良県にある葛城一言主神社へお参りして来ました。

この神社は、お願い事は「一つだけ」という神社で、今までにも何回か参拝し

ています。気に入っているのは何と言っても田舎の自然の中にあるがままにあ

るような佇まいで、私にはとてもいい感じの神社なのです。

偉そうに不遜な話をしますが、ご本尊は正殿の屋根上に座わっているそうで、

狐も本殿横にある清めの水場近くにいるそうです。

私も暫くの間はその付近へ目を凝らして見つめていたのですが、残念ながらご

本尊も狐も見えませんでした・・・

それでも境内は古くて朽ち始めている胴回りの大きなご神木もあり、何かしら

霊験らしい雰囲気もするのです。ここの神様にはどことなく不遜ながら妙に身

近さを感じるのです。あるがままにといった雰囲気に感じるからでしょうか、

目立たないどこにでもある田園風景の中にあり、古びた風情も参詣者には割と

好まれているのかも知れません。その証拠に県外ナンバーの車も来ているよう

でした。ここをお気に入りの参詣者もそれなりにいるように感じます。

神社によってはパワースポットもあり、そんな所へ行く参詣者もいるようです

し、私には分からない魅力もあるのだろうと思います。

いつか、ここの神様や狐様にも出会えたら嬉しいなあと思っています。


さて、この神社の起こりですが、西暦460年、21代雄略天皇が葛城山へ鹿

狩りに行かれた際に、紅紐の付いた青摺の衣を着た雄略天皇一行と全く同じ恰

好をした一行が向かいの建物の尾根を歩いているのを見つけて驚き、雄略天皇

がその名を問うと、相手は「吾は悪事も一言、善事も一言を言い離つ神で、葛

城の一言主の大神なり」と答えたのだそうです。

本物の雄略天皇はその言葉に思わず恐れ入り、弓や矢の他に官吏たちの着てい

た衣服を脱がせて全部をその一言主神へ差し上げたそうです。

相手の一言主神はそれらを受け取って、雄略天皇一行をその場で見送ったのだ

そうです。この話は712年の古事記の下巻に記してあるそうです。

こんな話があるので私も神殿の屋根辺りを暫く眺めていた次第なのです・・・

神話なのでしょうが、事の真偽よりも何か面白い例え話だと興味深く感じるの

です。どういう訳で本物の天皇一行とそっくりさんが現れたのだろうかと。

どことなく楽しい想いをこの神社には感じるのです。


また、この神社は程よい規模で、程よい古さで、目立たない土地にあり、人で

混む神社とは違い、丁度良い心地良さといった趣きがあります。

主神は葛城之一言主大神と言います。

凡そ、人には信じることや信じないことがあり、どちらかと言えば見えないも

のは信じ難く、見えるものは信じ易い傾向があります。宗教はその典型かも知

れません。神様や仏様を実際に見たという人もいれば、心の中に見えると言う

人もいます。まるっきり信じないという人もいます。

見える、見えないということはこれほどまでに異なっている訳です。

私は見たことはありませんが、見たという人は知っています。

信じるか信じないかよりも人により、場所に依りで不思議なことです。

心は体のどこにあるのか?心に形はあるのか?とか聞かれたなら、結構、答に

窮するものです。しかし、実際に自分の中に心はあるので、神様の存在も同じ

なのかも知れません。


科学でも今まで見えなかったものが見えるようにもなっています。

心の場所や様子も科学的に解明出来る時代がやって来るかも知れません。

例えば今は見えない宇宙の果ても今はまだ見えないだけで、物理的には存在し

ている筈なので、科学が進めば物理的に宇宙の端の存在も分かるかも知れませ

ん。宇宙はとてつもない大きさで、その巨大さが話題に挙げられますが、科学

が進んで解明されても、更に新たな未知なる世界が発見され、更に新たな存在

が発見されることも間違いないだろうと思います。

心も何もない物体にある訳ではないので、きっといつか解明されるかも知れま

せん。一昔前にはブラックホールですら理論的に存在していると言われていな

がら科学的に存在を可視化出来なかったのですから。


自分の頭や心や感性によっては同じものを見ても、異なって見えるものだと思

います。見える人には見えるけれど、他の人には見えないものがあっても決し

て不思議ではないと思います。私もそんな経験をしたことがあります。私には

見えませんでしたが、その方には見えたそうです。

例えばサヴァン症候群の人には普通の人に見えないものまで見えたりするのも

物理的な視覚情報でなく、感覚を通じて可視化されているかも知れません。

人にもいろいろな方がいる訳で、それを前提に考えると人に対して嫌な思いや

嫌な言動を放つことは決して賢いことではないように思います。

物理的なことは兎も角としても、それ以外の分野は摩訶不思議なことがあって

も当たり前かも知れないのですから。


私自身、限りある人生の折り返し地点を過ぎて、次第に人生の終点へ向かいつ

つあると考えています。この事は決して悲しい事ではなく、皆が通る道なので

迎い入れるしかありません。

どうしてそのように思い始めたかは自分でも良く分かりません。

自分の生き方や終わり方を考える機会が次第に増えて来ており、その分、もっ

とこうしたい、ああしたいと考える部分が増えているからかも知れません。

簡単に言うと、生き方よりも死に方を考え始めているからではないかと思いま

す。若い時にはこんな様子はありませんでした。少しずつ少しずつそういう世

界を少しずつ身近かに感じ始めているように感じます。

若い時は始まりを、それなりになれば終わり方をでしょうか・・・

どこかで人生への始末の付け方を意識し始めている自分がいるのです。

やれることをやれるだけやって、少しでも悔いなく果てるのがいいといった感

覚でしょうか・・・私には煩悩が多くてスマートには生きられないように思い

ます。


仕事柄、経営に携わる仕事も人生に似ているように感じます。

まだまだやり残している事が多くても、反面、仕事が楽しいのです。

楽しくて仕方がないのです。でも肉体は比例していないのです。

好きなことをやれていることは本当に幸せで有難いことです。

この先はどうなっていくのかは分かりませんが、しいて言えば、仕事が好きに

なるように生きて来たので飽きるまでは関わり合って生きて行きます。

困難だろうが、しんどいだろうが、本質的にやりたいかやりたくないかで選択

の連続だったと思います。今にして思えば人生に不可能なことはないように思

います。何故なら壁は自分が作りだしているからです。

どんな時でも最後まで可能思考で生きることが大切だと思います。

人生は一度きりです。

一言だけ私が神様にお願い出来るならば、病いで亡くなることは避けたい。

毎朝、神様に感謝することは忘れませんので。宜しくお願い致します。



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