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  • 執筆者の写真株式会社ビジョンクリエイト

父の死 第63号

去る10月の下旬に九州の実父が亡くなりました。 88歳の天寿を全うしましたが、今年春に大腿骨を骨折し、体内に補強材を入れる手術を受けたばかりでした。 88歳で外科手術とは、本当に凄い人だと思いました。 心臓の強い人だと医者には言われていましたので、まだ3,4年は行けると思っていました。亡くなったと聞いた時にはあっけにとられた感じでした・・・ 最後は療養施設のようなところで亡くなりました。 死因はこの手術の経過ではなく、老衰と食欲減退にあったようです。

実母が亡くなってから気丈にも毎日、妹が運んでくる食事で10年ほど実家に一人で住んでいましたが、話し相手もいないせいか呆けてしまい、この数年は妹が引き取り面倒をみていました。 妹やその旦那様には本当に感謝しています。 私のように我が侭で勝手気ままな兄には過ぎた妹です。

私の人生はこの父親なくしては語れません。 私の性格も生き方も全てこの父親との関係から成り立って来たからです。 恥ずかしい話ばかりですが、これが私と父の関係でした・・・

今改めて、父とのことを思い出すと、確執だけの永い年月だったように思います。 父は地方公務員で病院の事務をやっていました。 大陸へ戦争にも行きました。右足に銃弾を受けたような長い傷があり、破片か何かが残っているらしく、季節の変わり目には少し痛いとか話していたことも小さい頃の思い出です。 その当時、といっても幼稚園の前位までは父の好きなところもありましたが、徐々に嫌いなところが嫌になり、やがて憎むほど嫌いになって行きました。 特に、お酒が絡むと嫌いでした・・・ 知らない人を家に連れて来ては泊めたり、勢い余ったのかどうか気にいらないことがあると母親を蹴ったり叩いたり、挙句には止めに行った私も叩かれたりしました。 また、我が家には大勢のお客さんがよく来て大宴会もありました。 ここでも父が主人公でした・・・

今でも忘れられないのですが、他の家にお酒を呼ばれ一緒に付いて行った思い出があります。 後になって思うのですが、小さな子供が何故付いて行かされたのでしょうか?・・・ それは酔って帰り道が分からなくなるから、一緒に帰ってくる為に連れて行かれたように思います。 私は折檻もよくされましたし、家から追い出されたことも幾度となくありました。 家の中から鍵をかけられ、夜に外へ出されるのです・・・本当に一晩中でも開けてはくれないのです。 小さい私は出された以上、最初は反発してどこかに行こうと近所を夜に歩き回るのですが、所詮は子供です。結局は家の外に戻って来てしまうのです。 家の中は電気も消えシーンと寝静まっています。 その時の疎外されたような寂しい気持ちは今でも忘れることが出来ません。 そこで、仕方なく家の床下で寝るのです。 兄と兄弟仲良く床下で寝た記憶もあります。

そんな時、母親がおにぎりを作ってよく外へ出て来てくれました。 何故なら、罰として食事抜きになるからです。 それでも母は、父親の命令に背けないので家の中に戻って行ってしまいます。 母親の子へ対する愛情というか立場というか、当時の女性の我慢しなければならない立場や気持ちはこんなものだったと思います。

こんなことが幾度となくあって、次第にますます、確実に、父親を嫌いになって行きました。 父のやること、なすこと全てが嫌いになりましたし、同じ空気を吸うことさら嫌で嫌で仕方がありませんでした。 食事中に父が帰って来た途端に、すぐに箸をおいて部屋にこもりました。 中学、高校時代に父と食事を一緒にした記憶が殆どないのはこの為です。 例え、家族がいてもそうでした。 こんな状況なので他の家族や親戚からは異端児扱いされました。

また、中学時代にも学校へこっそり職員室を訪ねて来て、担任に私の高校の進路を変更させたりもしました。 ますます父を嫌いになり、高校時代にはもう卒業したらなるべく遠くのところへ行きたいと、そればかりを考えていたように思います。 学校の成績など、もう話になりませんでした・・・ 通っていた高校は一応は進学校でしたが、入学して以来、月日を追う毎に成績は下がって行きました。もうどうでもいいような感じでした・・・ 授業をサボったりパチンコやオートバイでどこかに行ったりもしました。 当時の担任から夏休みなどに補習を受けるように言われたこともありますが、そんなことすら拒否していました。

こんな幼少期や少年期でしたので、私の性格形成には大きな影響が出ました。 幼いながらも根性がありましたし、簡単に褒めることなど出来ない性格にもなりました。また、妙に正義感が強く、また情に脆く涙もろい性格にもなりました。 高じて、都会の電車の中でいじめられている人がいると割って入ったりしたこともありますり、ホームで若者と大立ち回りしたこともありました・・・(今はないですので) こんな子供だったのでガキ大将として近所でも有名な子供でした・・・ 今でも近所だった方に会うと、その当時のことを沢山聞かされてしまいます・・・

母親に連れられて謝りに行った家もありますし、畑全体の大根を根こそぎ抜いて、葉っぱの部分だけ土の上に置いて逃げたりと、こんな悪さはの日常でした・・・ 市電を停めたことは何度もありますし、研いだお米の中に砂利を入れたりしたこともあります。板敷きで足に竹箒を挟んで折檻されたり、お灸をされたり、まあ、こんなことは序の口でした・・・

我が家は4人兄弟でしたが、私だけ性格が違って行ったように思います。 今思うに、大人になっても性格の変わらない、変えられない部分があるのも仕方がないと思います。 特に、簡単には人を褒められないのです。 先日あるセミナーで講師がこんなことを言われていました。 「経営者は人の何倍も努力して、実際に成果を出して来たのは事実なんです」と。 私は、「そうだ。その通りだ!」と心の中で叫びました。 だから「そんな程度の努力で、これ以上出来ませんなどと簡単に言うな! まだまだ努力が足りないだけじゃないか!」とも思います。

しかし、これが良くないことは充分に頭では分かっているのです。 本当に良く分かっているのです・・・ それでも、自分の生い立ちを含め半世紀以上の実体験から出来あがった性格です。 そう簡単には修正出来ないのです。 この自分との格闘は一生続くと思います。

こんなに憎んでいた父親でしたが、さすがに晩年は私にも理性が出始め、一老人として接することは出来るようになりました。 しかし、やはり、父親としてではないのです。

こんな駄目な私なのですが、人間とは本当に不思議なものでこれほど忌み嫌っていた父親にどこか自分が似て来ているのです。 そうはなるまいと必死に思えば思うほど、似て来ているのです。 これが遺伝なのでしょうか?・・・ 私の父は物理的には存在しなくなりましたが、私の中にははっきりと残っています。 理性と経験、私にとっての一生の課題なのかも知れません。 理性が大きくなったときに私は父を許すことができるのではないかと思います。 安らかに・・・

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