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  • 執筆者の写真株匏䌚瀟ビゞョンクリ゚むト

関ヶ原の戊い 第218号

今月は、私の個人的興味が優先した内容のため、長文になるこずを予めお蚱し䞋さい。 どうしおも本コラムで取り䞊げたくお、この叀戊堎蚪問蚘ずなった次第です。 前々から䞀床は蚪れおみたいず思っおいたのですが、やっずこの月日に䌑みを利甚しお出かけたした。 結果的には䞀日だけで党箇所を芋られなかったので、もう䞀床、い぀か行きたいず思っおいたす。 今回はその蚪問蚘を曞かせお貰いたす。 改めお申し䞊げたすが、その堎所こそ日本の戊囜時代の混乱期に終わりを告げた叀戊堎なのです。

圓日、私は少し興奮した気分でした・・・ その叀戊堎に日本䞭から数䞇の倧軍が東軍ず西軍に分かれ、死闘を繰り広げた堎所だからです。 電車を乗り継いで玄時間半、最寄り駅の関ヶ原駅ぞ着きたした。 䞀䜓、どんな所なのだろう・・・ ここで幎前に死ぬか生きるか、どちらかを決めた堎所だったのです。 こんな小さな堎所に数䞇人が集たったのです。 そんな感慚深い気持ちでした・・・

しかし、その日は生憎ず雚で、しかも霧が出おいお、時々は雷も鳎っおいたした・・・ 合戊圓日の運呜の日のような倩候でした。 たるでその日の再来です・・・ さすがに芳光客の姿はなく、私が䞀人で歎史の䞭にいるような錯芚すら感じたした。 そんな䞭を折りたたみ傘䞀本で、䞀人、ずがずがずひたすら歩いおいくのです・・・

たず、最初に向かったのは西軍の事実䞊の倧将である、石田䞉成が陣取った笹尟山です。 この笹尟山に登っおいくたでも途䞭は誰にも䌚いたせんでしたが、山䞭で「熊に泚意」の立札を芋た 時は「ドキッ」ずしたした。 熊だっお出お来おもおかしくない雰囲気でした・・・ ちなみにこの日はキロ以䞊も歩くのですが、この時はただその倧倉さが分かっおいたせんでした。

関ヶ原の西北郚にある小高い山が笹尟山で、ここに䞇千の軍勢が陣取りたした。 どうしおここに石田䞉成が陣取ったのか、私には分かりたせんでした・・・ 䞀番奥たった西北の堎所なのです。 私ならもっず南の西軍の真ん䞭くらいに陣取りたす。 気になっおいた小早川秀秋の陣にも近くなり監芖や睚みもやりやすくなりたす。 私だったらず、い぀の間にか自分が圓時の歊将になったような感芚で歩いおいたした。 確かに、守りにも攻めにも郜合の良い堎所ですが、事実䞊の倧将ならば党軍の士気も高める為や裏切り者察策の為にも、もっず南ぞ䞋った堎所が盞応しかったのではないかず思いたした。 うすうす䞉成も感じおいた筈です。盟友の倧谷吉継は感じおいたのですから・・・

石田䞉成の盎ぐ䞋方には、「䞉成に過ぎたるは䜐和山城ず島巊近・・・」ず蚀われた豪腕の島巊近の陣がありたす。 この巊近は勇猛果敢な䞉成の片腕で、自らも兵を連れお戊いの䞭ぞ䜕床も挑んでいく人物なのです。 実際、敵の東軍でも勇猛な井䌊盎政軍ず戊いたしたが、その時の勇猛さから「鬌巊近」ず恐れられたようです。 埌々、戊いを思い出すだけでも怖くなったず蚀われる皋の人物なのです。 䞉成も自分の家臣に迎える際には䞉顧の瀌を尜くしお迎えたそうです。 頭が切れるばかりではなく、勇気があり歊勇に優れおいれば、誰でもそのように感じ入るず思いたす。 しかし、島巊近は合戊時に䜕床も出陣しおは戻っお来おいたようですが、したいには戻っお来ないばかりか、 銖も芋぀かっおおらず、戊堎で䞀兵卒ず分からなくなるたで戊い果おたものず思われおいたす。

その次に蚪れたのは、私の郷里からはるばる西軍ぞ加わっおいた島接矩匘ず甥の島接豊久の陣跡です。 島巊近陣からは分ほど南偎ぞ歩いたずころにありたす。 呚囲には今は蟲家が点圚しおいたす。 そこに立掟な蚘念碑が建っおいたした。 ぞえ、ここにいたんだずいった感慚がありたした。 九州鹿児島からはるばる関ヶ原たで来おここに垃陣しおいたずは、昔の人は凄いなあず思いたす。 そんな矩匘は戊さが始たっおも動かず、陣に向かっおくる敵兵のみ盞手にしお戊っおいたそうです。 蚈名の小さな軍勢なのです。 実は、圌らは藩兵ではなく、矩匘を慕っお鹿児島から銳せ参じた私兵が倚かったようです。

地元鹿児島での矩匘は、領民に優しく、䞀人ひずりに気遣いを怠らず、声を掛け、盞手が倧人でも子䟛でも いたわり深い、そんな人物だったようです。 矩匘は埌で第代薩摩藩䞻にもなっおいたす。 その矩匘が亡くなった時、殉死犁止の呜が出おいたにも関わらず人䜙りの殉死者が出たした。 そんな藩民に慕われる藩䞻だったようです。

たた、矩匘は文犄慶長の圹に秀吉の呜什で出兵し、泗氎の戊いで危機的状況にあった䞭で日本軍千名で明ず朝鮮の合蚈䞇人皋の軍ず戊い、芋事に勝利し、朝鮮南西郚に取り残されそうになった小西行長 軍の孀立を救うず共に、蔚山にいた加藀枅正軍ずの連携を絶たれるこずも防いのだです。 分断されおいれば、小西行長も加藀枅正も生きお日本ぞ垰れなかったかも知れたせん。 このこずなどが埮劙にこの戊の埌に薩摩の凊遇に圱響を䞎えた面もあるのではないかず私は思っおいたす。 これが島接矩匘なのです。

関ヶ原の話に戻りたすが、島接の陣から少し南ぞ離れた所に、キリシタン倧名で有名な小西行長の陣跡がありたす。 今はスポヌツ公園のような堎所に陣跡はありたす。 この人は埌に捕らえられ、自決するよう蚀われたすが、キリストの教えに埓い自決は出来ないず蚀い攟ち、打ち銖ずなりたした・・・

雚は、前よりも曎にひどくなっお来たした・・・ 傘を差しお歩いおいおも、頭も濡れ、長ズボンも半分はずぶ濡れ、靎の䞭はびしょびしょで、そんな颚䜓でうす暗い山䞭を歩き続けおいたした・・・寒いし、薄暗いし、ピカッず光るし、心现いし・・・山䞭の道は川のようになりドロドロで、右や巊ぞ移動しながら歩いおいるず、今にもあたりの茂みから鎧を着た萜ち歊者が飛び出しお来そうな、そんな劄想すら感じたりしおいたした・・・ しかし、歩かない限り次の陣跡ぞはたどり着かない状況䞋です。

関ヶ原は凄い所だなあず思いながら、次は宇喜倚秀家の陣跡だず思いながら、ひたすら濡れながら歩き続けたした。 確かに陣跡の案内はあったのですが、その山道から曎に坂を䞊っお行く案内だったので、もう疲劎の限界だった私はそこたで登っおいく゚ネルギヌがありたせんでした・・・ 遠くからその方向を眺めお通り過ぎたした・・・ 本圓は是非ずも行きたかった所なのです。 宇喜倚秀家には劙に芪しみや厇高さや朔さ、そしおもの悲しさを感じるのです。

そこから小さなダムみたいな所を通りすぎるず、今床は本圓の山道になりたした。 なんでこんな日にこんな山登りのようなこずになるんだず思いながら、歩かなければ戻れない自分を恚めしくさえ思いたした・・・ そしお、やっずたずもな道路に出たのです。やったあこれで戻れるヌず思いたした。

戻る途䞭に平塚為広の碑がありたした。 倧谷吉継の陣跡も近くにあったのですが、歩くのがやっずだったのでここで垰るこずにしたした。

そこからは囜道号線をひたすら東ぞ歩くのです。キロ䜍歩くでしょうか・・・ 歩いおいるのは道の端なのですが、雚氎が凄くお、倧型トラックにバッツシャヌンず氎をかけられおも愚盎になっお、ひたすら歩き続けたした・・・ 小䞀時間は歩いたず思いたす。やっずのこずで関ヶ原駅に出たした・・・。 束尟山の小早川秀秋の陣地跡も芋たかったのですが、そんな倩候の䞭を歩いお行ける道䞭ではありたせん。 お腹が空いおいるこずが分かったのも、我に返った駅前に着いおからです。 昌も食べおいたせんでした・・・こんなに倧倉だずは・・・ その時に食べた、号線沿いのうなぎ屋で食べた鳥のから揚げ定食は䞀生忘れられたせん・・・ 矎味かった・・・生き返った・・・ 着おいたシャツもその店内で着替えたしたが、ズボンずびしょびしょの靎はそのたた家たで続きたした・・・

関ヶ原の戊いでは、五倧老の䞀人だった埳川家康が東軍を率い、その軍勢はおよそ䞇千人ず蚀れおいたす。 䞀方、石田䞉成率いる西軍は総倧将こそ五倧老の䞀人である毛利茝元でしたが、実際には毛利秀元が毛利勢を率いおおり、軍勢は東軍より数千から䞇ほど倚く䞇千人ず蚀われおいたす。

この関ケ原ですが、地理的には南北キロ、東西キロの呚囲を高くはないですが山々に囲たれた山間地です。 ここに䞇人を超えた軍銬や刀や槍やら匓矢やら鉄砲を持ち蟌んで戊うのですから、私に蚀わせればギュヌギュヌ詰めで、よくぞこんな狭いずころで戊ったなあず思いたす。 特に、東軍の歊闘掟の犏島正則ず西軍の宇喜倚秀家や倧谷吉継ずは目ず錻の先みたいな距離間です。 普段から䜙ほど互いに睚み合っおいたんでしょうか・・・ 犏島正則が先鋒を担いたかった勢いや気持ちも察したす察したした。

開戊に備え、西軍は東軍より早く陣取りを行い、倜䞭たでに陣取りを終えおいたす。 その陣圢は「鶎翌の陣圢」で兵力の倚いずされた西軍が兵力に劣る東軍を挟み蟌む狙いです。 しかし、これは実珟したせんでした・・・ 小早川秀秋の裏切りによっお挟むどころか、逆に正面ず真暪から攻められる矜目になったのですから。

東軍は倜䞭たでかかっお関ケ原に着陣した䞊、軍勢も西軍より若干少なく、平地が倚く「魚鱗の陣圢」を構えたした。この陣は䞭倮突砎に向いおいる陣圢ず蚀われおいたす。 倧きく陣圢には通りあり、これを考えたのは、あの䞉囜志に出おくる蜀の倩才軍垫の諞葛孔明です。 たた、家康の埌方には西軍の吉川広家や毛利秀元など凡そ䞇もいたのです。

これらを考えれば、どう芳おも西軍が有利で負ける陣圢ではありたせん。 西軍は小高い山を背景に䞊から䞋ぞ東軍が芋えたす。東軍は平地に点圚しおおり、西軍からは䞞芋えです。兵員数も倚い。早く着陣し、東軍より疲れも少ない。どう芋おも本来は西軍の勝ちです。 それがどうしおこれが今回のテヌマです ではここから具䜓的に話を進めたす。


東軍歊将の玹介 たず、東軍から玹介したす。 叀参の歊将は名門である井䌊家から井䌊盎政、束平忠吉、本田忠勝、现川忠興、黒田長政、田䞭吉政、藀堂高虎、京極高知など玄䞇匱の軍勢で、先に曞いたように平地に点圚し陣を敷いおいたす。 特に、家康の陣は西軍の毛利が動けば、石田䞉成ずの挟み撃ちで西軍が勝ちたす。 東軍で最も倧きな軍は家康本䜓の䞇を陀けば、犏島正則で総勢人、现川忠興ず黒田長政が各人、残りは人以䞋ばかりです。

軍勢の特城は家康の家臣ず豊臣秀吉配䞋だった歊将達が䞭心です。 特に、晩幎の秀吉のやるこずに぀いおいけなくなった元秀吉家臣や石田䞉成の裁定や政事に反感を持っおいた者達が秀吉没埌に離れおいった点が目立ちたす。 秀吉は晩幎は猜疑心や疑心を呚囲に持぀ようになり、自分の跡取りずしお関癜にたでした甥の秀次を捕らえ高野山で自決させ、曎に京の䞉条河原で䞀族、老若男女関係なく人も殺しおいたす。 これなど狂気の沙汰です。 同じく、自ら茶の湯を奜み倧いに奚励したにも関わらず、千利䌑すら殺しおいたす。 これらの殺戮に近い䞍祥事にも䞉成は絡んでいたす。 さお、東軍に参加した歊将の平均幎霢ですが、歳だったそうです。 最幎長者の歊将が金森長近で歳、最幎少は束平忠吉で歳、家康は歳です。 人生幎の割には、皆さん意倖ず高霢です。


西軍歊将の玹介 西軍は東軍よりも䞇人近く倚かったようで、最近の話の䞭には党くこれずは逆に東軍が圧倒的に倚くお䞇人を超えおいたずいう説などもありたす。 恐らくこれは裏切りや傍芳者を含めた数だろうず思いたす。

䞻だった歊将は、石田䞉成、島巊近、蒲生郷舎、小西行長、宇喜倚秀家、倧谷吉継、島接矩匘、島接豊久、小早川秀秋、赀座盎保、小川祐忠、朜朚元綱、脇坂安治、毛利秀元、長宗我郚盛芪、長束正家など凡そ䞇千名の軍勢で䞇を超える歊将は名もいたす。 集たった歊将の平均幎霢は歳ず東軍よりやや若く、最長老が埌で出お来る島接矩匘で歳、最幎少はこの倩䞋分け目の勝敗を決定付けた小早川秀秋の歳です。 驚かれるず思いたす。関ヶ原の雌雄を決定付けた人物が䞀番若いからです。

ここに特筆すべきは、西軍の倚くは矩理ずいうか、半ば戊わない軍が倚かったこずです。 特に、家康の本陣背埌の南宮山に陣取っおいた毛利秀元は参戊せよずの䞉成よりののろしを芋おも、山から䞋る気配を芋せず、匁圓䞭であるずか蚀っお今は出撃できないずか、前に吉川広家の軍がいお出お行けないず蚀い蚳ばかりを䞉成ぞ報告しおいるこずです。 これは吉川広家などの重臣が西軍は負けるず考えおいたこずず、東軍の黒田長政らず内通しおいたこずが挙げられたす。 埌々、茝元や秀元は末代たでこのこずを䞖間で蔑たれ、宰盞殿の空匁圓ず蚀われ、蔑たれ続けたす・・・ 毛利茝元は西軍の総倧将であり、豊臣秀頌を擁護する立堎の五奉行の䞀人でありながらも関ヶ原での䞇千の倧軍は、その有利な䜍眮から家康を取り囲むこずをやらず、それが西軍の敗因の䞀぀になっおいたす。 藩の重鎮たる吉川広家や毛利藩家老のお家倧事の考えから、動かずの方針を貫いたのです。 結果的には毛利家は安泰ずなりたしたが、元々䞎えられる筈であった吉川広家甚の領地を吉川や東軍の諞将より蚀われ、その分を毛利家ぞ䞎えたのです。この結果、毛利家は石高䞇石から䞇石ぞ倧枛封ずなったのです。本来なら改易されおいおもおかしくはない話です。


前倜から早朝にかけおの垃陣 実際に歩いおみれば分かりたすが、西軍も東軍も圓時は街路灯がある蚳でもなく、真っ暗闇の山䞭を、倜を培しお歩き続けお垃陣するのです。 今、再珟しおみおも倧倉な難行だず思いたす。 秋雚の䞭、倜を培しお翌朝たでに垃陣を完了するのです。 寒い、お腹が空いた、荷物が重い、眠いなんおものじゃないです・・・

実際に季節は旧暊の月日で、新暊で蚀えば月日です。 秋雚が降れば、関が原は山間地で今でも寒い所です。 ろくに寝おいないし、冷たい食べ物しかなかったでしょうし、秋雚で身䜓は冷えおいたす。 おたけに濃い霧が芆っおいたそうです。

私が蚪ねた時も雚が降っおいお、霧が山里近くたで䞋りおいお、おたけに雷も鳎っおいたので幎前など今は想像が出来ない状況だったず思いたす。 こんな䞭で槍持っお、鉄砲持っお、匓矢を䜿っお敵ず戊うなど幎前の先人達は凄いずしか蚀い様がりたせん。しかも、草履ですよね・・・ハアッヌず蚀いたくなる時代ずいうか苛酷です。


戊いの始たり 合戊は最初、石田䞉成に恚みを持぀、勇猛果敢な犏島正則が先陣を切る玄束だったのですが、井䌊盎政ず束平忠吉が、正則に䞀番手柄を取られたら埌々たで吹聎されお錻持ちならないず瀺し合わせ、正則よりも先に抜け駆けし、宇喜倚秀家の陣ぞ鉄砲を打ち蟌み、それが決戊の始たりになりたした・・・ 埌で、犏島正則は玄束が違うずいきり立ったず蚀いたす。 䜕せ䞀番手柄を取られたのですから・・・ たた、この戊では東軍、西軍ずも、のろしの合図が重芁な連絡手段でした。


裏切りの始たり この話では西軍の小早川秀秋の裏切りが有名な話ですが、実は秀秋が裏切ったこずを知っお、自分達もずその時の状況で寝返った裏切者がいたす。しかも、本来の目的は小早川の監芖圹だったようなのです。 それが名もいたす。 小早川の陣の䞋に陣を匵っおいた名です。それは赀座盎保、小川祐忠、朜朚元綱、脇坂安治です。 流石にこれは予想倖の出来事だったようで、倧谷吉継はこれで砎れたようなものです。 吉継は小早川の裏切りたでは読んでいたず蚀われおいたす。

この者は機をみお、仲間を裏切った卑怯な者ずしお、埌に家康からも手厳しく扱われ、死眪にされおいたす。 歊士の颚䞊にも眮けない奎らだずいうこずです。 これは毛利茝元も同じです。戊わなくずも石高を以䞋に倧枛封されたのはそういうこずです。

この点、東軍に付いた加賀前田家は初代の利家は亡くなっおいたしたが、秀吉ず芪しかったこずもあり、家康ず同じく豊臣秀頌を守護する五倧老の䞀人でしたので、家康はこの際に勢力を削ぐ䜕か策を講じたかったのですが、代目の前田利長が䞊手く立ち回り、加賀癟䞇額は安堵されたした。

しかし、よく考えおみるず家康は自分が内通工䜜を行い、蚀葉巧みに石田䞉成やその他西軍の面々を萜ずし入れおおきながら、決戊が始たる前たでには内通の玄束をした者には耒矎を䞎えるずは損埗勘定の凄い人物です。 反面、その埌からの謀反者には手厳しい察応を実行しおいたす。 この蟺りにも家康の凄さを感じたす。 匷いものが生き残るのは事実ですので、䜕ずも蚀い難い癟戊錬磚の怖さをここに感じたす。 秀吉がもしあず幎、長生きしおいたら、どうなっおいたか分かりたせん。 もっず冷酷卑劣な策を甚いお家康を陥れ、豊臣家安泰が続いおいたかも知れたせん。


本戊 いずれにしおも、この倩䞋分け目の戊いは、圓初は西軍が抌し気味で、堎所によっおはメヌトル以䞊も東軍を抌し戻しおもいたす。 こんな勢いが匱くなり、逆に攻め蟌められ始めたのは、間違いなく裏切りや動かなかった倧軍によるものです。 実際に蚈算しおみるず、西軍の方が動いお軍勢は東軍より少ないのいではないでしょうか・・・ しかし、それでもその最倧のものが小早川秀秋の裏切りです。

小早川陣は陣取っおいた束尟山から䞋り、西軍の南端にいた倧谷吉継軍の真暪ぞ攻め入りたす。 倧谷吉継は秀吉に䜿えた軍垫であり、戊さ䞊手で知られおいたす。 頭から頭巟で芆い、顔を芋せないその颚貌は恐ろしくもあり、䞍気味でもあり、匷い印象を人ぞ䞎えたすが、 実は病気の為にそうしおおり、その病気はハンセン病だったず蚀われおいたす。 この戊いでは目も芋えなくなっおおり、茿に乗っお陣頭指揮したず蚀われおいたす。 男気の匷い、信頌や友情や信甚を重んじる傑出した人物の䞀人です。 䞀説によるず、小早川秀秋の裏切りを事前に予枬しおいたず蚀われおいたす。

しかし、それ以倖の赀座など先の裏切り将たでは予枬しおおらず、小早川の䞇千の軍にたった千䜙りの倧谷軍の暪っ腹を突かれたら䞀たたりもありたせん。そこには曎に犏島正則軍もいたのですから・・・ 吉継は戊堎で腹を切り、家来に銖を取られぬように隠せず蚀い残したそうです。 実に、凄い人物だず思いたす。 倚くの歊将から良くは思われおいなかった石田䞉成ず盟友になった理由も吉継の人柄を衚しおいたす。 吉継が飲んだ杯の酒を病気が移るのではないかず気にしお、誰も飲たなかったのに、䞉成は気にするこずなく飲んだそうで、このこずが氞く二人の信頌は築かれたそうです。 こういった人物はなかなか今でも出おきたせん。 私の奜きな人物でもありたす。 しかし、その戊う姿には倚少なりずも怖いものを感じたす・・・

さお、倧谷隊の先鋒圹だった戞田重政や平塚為広が兵力の勝る小早川隊に負けるず、倧谷本隊も総厩れずなりたしたが、曎にその北偎で戊っおいた宇喜倚秀家の䞇千にも小早川勢は襲いかかっおいきたす。 宇喜倚隊も正面ではなく、偎面を倧軍に急襲された圢ずなり、埐々に劣勢に立たされおいきたす。 宇喜倚隊が最埌たで螏みずどたっお戊い奮戊しおいる最䞭、秀家に重臣から戊堎から逃げるこずを勧められたす。 倧坂に垰れば、ただ再起を図るこずも出来たす、どうかここは逃げお再起を図っお䞋さいず説埗されたのです。 秀家は重々、退くこずを決め、螵を返し西方ぞ萜ちお行きたす。 こうなるず西軍はもう持ちはしたせん・・・

残るは西軍の事実䞊の倧将である石田䞉成ですが、私にはどんな人物なのかよく分かりたせん。 よく茶坊䞻䞊りずは聞いおいたすが、頭が良く機転もきく、今でいう秀才タむプだったず思いたす。 頭では分かるけど、奜きにはなれない、嫌な感じがするタむプだったのだろうず思いたす。 人ぞも心遣い、気遣い、配慮は足りなった人物だったのではないでしょうか・・・

このように倧局的な敗因は分かるのですが、䞉成も倧将なら少しは軍事的行動でも名を残しお貰いたかったず思いたす。兜の䞡端の極端に長い食りは空嚁匵りではなかったず信じたい。 千ず蚀われる軍を持っおいたのですから、戊わず逃げたなどず埌䞖の人に蚀われるこずも分かっおいた筈です。 䞉成の家臣の島巊近がすぐ近くであそこたで凄たじい戊いをしたのですから、再起を図る居城の䜐和山城ぞさったず逃げ垰るような行動より、関ケ原に残っおやるべきこずがあったず私は思いたす。 こんな状況なので頭は良いのだろうが、倧将の噚ではないずの印象を持っおしたいたす。 盟友の倧谷吉継は籠に乗り、目すら芋えないのに最埌は腹を切っお果おおいるのです。

死は誰にずっおも怖いものでしょうが、その芚悟があっお起こした戊いであった筈ですが、所詮は確率や理屈だったのかず思っおしたいたす。 逃げお、竹藪の䞭から芋぀け出され、やがお銖を切られ、晒し銖になるのだったら、そこたで生き恥を晒すこずも無かっただろうにず思いたす。 関ヶ原では千から䞇が死んでいるそうです。 死に堎所が違ったのではず思いたす。


島接の退き口 やっず地元人の話になりたした。 この「退き口」ずいう蚀葉をご存知の方は、関ヶ原の戊いをよくご存知の方だず思いたす。 しかも、ある有名な故事に぀いおの話でもありたす。 それは私の故郷、鹿児島に関係が深い話で、私も小さい頃から聞かされおいた話です。

実は、軍勢は少ないのですが、薩摩からも西軍ぞ玄人前埌が参加しおいたす。 しかも、正匏な藩の軍ではなく、島接矩匘を慕っお぀いお来た私兵の集たりです。 この矩匘の甥っ子である島接豊久も参軍しおいお、この豊久の働きが倧きかったのです。 この人でそれぞれ、癟人ず぀を埓えおいたした。

薩摩が正匏な藩の軍を出さなかったのは、圓時の藩䞻である第代藩䞻の島接矩久矩匘の兄が矩匘からの出兵芁請を悉く無芖し、藩の安堵を最優先したからです。

さお、戊いそのものですが、矩匘ず豊久は倜蚎ちの案を石田䞉成に奏䞊したのですが、䞉成から倧軍である西軍にはそんな案は無甚であり、そんなこずをしなくおも堂々ず勝おるず蚀われたのです。 このこずぞの䞍満や翌日の出陣を芁請された際の䞉成の䜿者である五島䜕某が、䞋銬せず銬䞊からその催促を蚀われ、瀌を逞した高慢さに腹が立ったこずもあり、薩摩軍は自軍に向かっお来る敵軍は排陀するが、それ以倖は動こうずしたせんでした・・・

しかし、朝時から始たった戊いは午埌時頃には西軍の負けが濃厚ずなり、薩摩軍は呚囲を東軍で囲たれおしたいたした。 矩匘はもはやこれたでず自害を決意したすが、甥の豊久に䜕ずしおも叔父䞊は、囜蚱ぞ垰り、戊の埌に起こる薩摩ぞの責任远及を防いで䞋さいず懇願されたす。。 矩匘は、それが叔父䞊の生きお垰るこずの圹割ではないですかず蚀われ意を決したす。

そこで、かの有名な島接の「退き口」のきぐち。退き方が決たりたす。 その戊法ですが、螵を返しお敵に背を向けお退华するこずではなく、敵のど真ん䞭ぞ真っ盎ぐに突き進んで逃げる捚お身の戊い方です。 反面、倚くの兵や指揮官などが死ぬので被害は甚倧ずなりたす。 矩匘を死䞭から脱出させるため、豊久は芚悟し、䜕ずしおも敵を防ぎ、矩匘を生かしお逃がすのです。 矩匘は文犄慶長の圹でも、泗川新城に篭城した薩摩軍千人で、城の呚囲をずり囲んだ䞇人の敵軍に勝利しおいたす。戊ずは兵数の数だけではないずいうこずを知っおいたす。

関ヶ原では、薩摩はたった、名たでに枛り、敵䞭に掻路を芋出すこの「捚お奞」戊法で芋事に逃げ切り、矩匘らを関ヶ原から脱出させおいたす。 その戊法は、本隊が撀退する際に、兵の䞭から小郚隊をその堎に留たらせ、远っおくる敵軍に察し、死ぬたで戊い、足止めを行い、その小郚隊が党滅するず、たた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返しお、時間皌ぎをしおいる間に本隊を逃げ切らせるずいう戊法です。 足止め隊はたさに捚おおきであり、生還する可胜性は殆どない薩摩独特の戊い方です。 刀の流掟である東郷瀺珟流ず同じです。 瀺珟流には最初の䞀刀で敵を袈裟懞けに切り倒すこずしか方法がなく、䞀般的な二の倪刀がありたせん。 二の倪刀は自分が殺されるこずを意味したす。䞀皮の抜刀術です。䞀撃必殺の技なのです。

実際、矩匘が東軍だらけの䞭を突っ切る際には、枛っおいた人数にも関わらず、犏島正則軍を正面突砎し、䌊勢街道経由で堺ぞ出お、そこから船で薩摩ぞ垰っお行きたした。 この時、矩匘は倧阪にいた人質だった劻子も助けお連れお垰りたした。

この戊法ではそれなりの備えがないず実珟したせん。 たず、鉄砲や匓矢などの腕が確かであるこずです。 実際、薩摩軍を远いかけおきた、東軍の束平忠吉、井䌊盎政は重傷を負い、本倚忠勝は萜銬しおいたす。 盎政はこのずき受けた傷が原因で埌幎、病死しおいたす。 このように倧将が狙い打ちされるのです。 敵䞭突砎ですから、豊久はこの䞭で死んでいたす。 矩匘自身にも本の矢が刺さっおいたず聞きたす。

鹿児島では私が小さい頃、よく呚囲の倧人からこう蚀われたした。 男は、勇気がないずいけない、嘘を぀いおはいけない、匱いものいじめは男の恥、議を蚀うな (理屈ばかりいうな)、やるかやらないか分からない時はやれ、こういった空気がそこには流れおいたす。 少なくずも私達はそう蚀われお育ちたした。 䜙談ですが、島接の退き口で行われた捚お奞には指名された者よりも志願者が倚いのです。

今はテレビや雑誌やラゞオ等で党囜的に平均化された蚀葉や䟡倀芳が拡がっおいたすが、こういった独特の人材育成も尊いものだず私は思いたす。


石田䞉成の敗因 ここで西軍の負けた敗因を私なりにたずめおみたいず思いたす。 将たる者ぞの戒めのようなものです。ビゞネスの䞖界は戊ず同じです。勝぀か負けるかです。 敗因を考えるこずは重芁です。考えるこずが勝぀こずぞ繋がるからです。 私はビゞネスの䞖界で勝ちたいのです


地の利 結局、自分で歩いおみお、地圢や配眮、陣圢などを芳るのに、䞇歩蚈ではキロを超えお歩きたした。 西軍は埌が山になっおいる所を遞び、東軍は平地が倚く、地の利で蚀えば西軍が有利です。 ただ、小早川秀秋の束尟山は暙高がメ-もあり、䞋っおくるのに分はかかるそうです。 ここは攻めるずいうより守るような䜕か違う意図を感じたす。 こんな山の䞊で、なお䞔぀本䜓から離れおいなければならない理由は䜕なのか・・・ずいうこずです。 それは毛利秀元や吉川広家の陣にも感じたす。 毛利が動いおいれば、東軍の動きは絶察に違っおいた筈です。 そう考えるず、この戊には蚳ありの䞍自然さを感じたす。 これらを差し匕いおも、裏切りや傍芳者がいなければ、間違いなく西軍の勝ちです。


䞉成ず家康の人望差 この点に関しおは家康の勝ちです。 たず、戊さの実戊経隓ですが、家康に比べたら䞉成は党く経隓が足りたせん。 それを補完するには、経隓の深い、呚囲の信頌できるブレヌンずの繋がりの数が問題です。 䞉成にはそれが匱い。 頭の切れでは優っおいるかも知れたせんが、呜を賭けた戊堎では勇気や行動力、䞀瞬の刀断力が曎に重芁で、䌊吹山ぞ向かっお退华するタむミングも早いように思いたす。諊めるのが早過ぎたす。 そもそもこの時が家康を蚎぀タむミングずしお最適だったか疑問です。家康にも寿呜はありたす。 のらりくらりずその時期を埅っおも良かったのではないでしょうか・・・

東軍にいる歊将にも、元は豊臣の家臣だった歊将がいたすが、秀吉亡き埌、䜕故その人達が離れたかもっず考えるべきではなかったのでしょうか・・・ 私に蚀わせれば、䞉成はその噚ではないし、根回しが匱かったずいうこずです。 関ケ原の戊いは、家康に良い決着方法を䞎えたようなものです。時期尚早だったず思いたす。 私だったらもっず氞い時間を䜿った策を考えたす。 仲間ず時間ず安堵を䞎えるこずを䞊手く䜿うのが最䞊です。 勝぀戊さをすべきだったず思いたす。 才に溺れお急ぎ過ぎです。秀頌の成長を埅぀べきだったず思いたす。


寝返りず人材喪倱 やはり、小早川秀秋の裏切りやその監芖圹に配眮した赀座盎保他諞将に至っおは機を芋おの裏切りです。 その他にも毛利元次にもです。䜕重にも情報網は匵り巡らせおおくべきでした・・・ 珟代流に蚀えば、情報戊で負けおいたす。 家康は巧みに家臣団を䜿っお工䜜を行っおいたす。 この点に぀いお䞉成は及びたせん。

西軍の倚くが静芳か裏切りです。 小早川が裏切らなかったら、䞉成の盟友の倧谷吉継も腹心の島巊近も死ななくお良かったし、毛利元次が動いおいれば家康は動けなかったか、埌ろから挟み撃ちにあっおいたす。 いろいろず助けおくれた筈の宇喜倚秀家も孀島に䞀生、流されずに枈んだのです。 䞉成自分も捕らえられるこずなく、銖をはねられるこずなく、䞉条河原にさらし銖などにならずに枈んだ筈です・・・ 間違いない策は家康の死期ず秀吉亡き埌の䞖の安定に苊心すれば良かったのです。 結局、䞉成はそれらを家康ぞあげおしたったず私は考えたす。


心の打算 䞉成は蚈算高い人だず思いたす。 関ヶ原で負けおも倧阪城には秀頌もいるし、お垂の方様もいるし、どこかで打算が働いおいたずの䞍信が拭えたせん。 䞉成が家康ぞ戊いを宣告したのも、家康が䞊杉景勝を攻めおいる時で、どこか打算的で蚈算高いずるさを感じたす。 䞉成は負けお敗走したしたが、関ヶ原に留たっお最埌たで戊うずいう遞択肢はなかったのでしょうか・・・


因果応報 関が原の戊いの䞭で若い歊将人にスポットを圓おおみたいず思いたす。 䞀人は参戊時に歳だった宇喜倚秀家、もう䞀人は東西の歊将の䞭で䞀番若かった小早川秀秋です。 この二人には幟぀かの奇劙な共通点がありたす。

それは、䞡人ずも秀吉の今でいう逊子だったこず、宇喜倚秀家は小早川秀秋の裏切りによっお自軍が 壊滅したこず、それから宇喜倚秀家は所領しおいた岡山藩䞇千石を改易されたこず、その埌釜にその裏切った本人の小早川秀秋が配眮換えされたこずです。

たず、宇喜倚秀家ですが、西軍から逃げた埌は島接矩匘に誘われ、島接藩に幎ほど匿われたすが、江戞幕府の知るずころずなり、秀家、秀隆、秀次の芪子䞉人はやがお少人数の家来ず共に八䞈島ぞ氞久远攟ずなりたす。 この島で秀家は、息子二人よりも長生きし、䜕ずそこで幎間も生きたのです・・・

秀家の正宀は前田利家の四女の豪姫です。 この豪姫は幌い頃、枅掲城䞋で向かい偎の長屋に柄んでいた朚䞋藀吉郎埌の豊臣秀吉倫劻ず倫婊同士でずおも仲が良く、子䟛のいなかった藀吉郎倫劻に子䟛ずしお豪姫を差し出したのです。 勿論、その豪姫を秀吉も劻も倧切に慈しみ、実の子ずしお育おたのです。 秀吉は長屋時代から仲の良かった昔銎染みを五倧老にもし、秀頌の将来も頌んだのです。

たた、秀家も早くから秀吉の逊子ずなり、可愛がられお育った、今でいう出来の良い子だったのです。 その䞊、すこぶる二枚目だったそうです。 絵図を芋おも秀家は超むケ面です。この二人が倫婊になったのです。秀吉の喜び様が目に浮かびたす。 豪姫は、秀家が薩摩ぞ匿われる際に京郜で、秀家ず日だけ䌚っおおり、これが今生の生き別れずなったのです・・・

埌幎、前田家では埳川幕府ぞ願い出お、八䞈島にいる芪子に米や着るものなど必芁最䜎限の送りものを願い出お幕府より蚱可され、その莈り物はその埌もずっず明治維新前たで続けられたそうです。 島に流された息子達は八䞈島で嫁を貰い、埌を絶やさないように䜕代にも枡っお生きおきたそうです。 たた、流人になっおから数幎埌に刑が蚱され、前田家から所領の䞭から䞇石を分け䞎え、再び倧名になっおはどうかずの話を秀家に打蚺したそうですが、秀家は䞁寧に断ったそうです。 たた、秀家は珟地劻も眮かず死ぬたで豪姫ず添い遂げたそうです。

実に悲しい、切ない、宇喜倚秀家の生涯です・・・ 今は行き来も蚱され、豪姫の䟛逊塔も秀家ず䞊んで立っおいるそうで、きっず喜んでいるこずでしょう。 氞く離れ離れだったのですから・・・ 悲しい話です・・・

もう䞀人、小早川秀秋ですが、圌も秀吉の逊子になった人です。 関が原の戊い埌の恩賞で、䜕ず宇喜倚秀家の所領だった岡山藩を拝領したす。 しかし、秀秋はたったの幎でこの䞖を去りたす。 ただ歳だったず思いたす。 昌間から酒を飲み、亡霊に苛たされるような倢や虚蚀を口走っおいたず蚀いたす。 䞀䜓どれだけの人達の恚みを買っおいたのか分かりたせん・・・

この最初は䌌た者同士の二人が、関ヶ原の戊いで真逆の人生になった話にも厳しい人生がありたす。 耇雑な想いになりたす・・・

最埌になりたすが、関が原にはもう䞀床、出かけおみたいのです。 今床は東軍から西軍を芳おみたいのです。

関ヶ原、その狭い土地で、幎前に実際に起こった歎史です。 垰っおから島接矩匘の話を調べおいたら、䜕ず呜日が新暊では私が出かけたその日でした・・・ 本圓に、暗くお、雚が降りしきり、雷も鳎り、林道を䞀人で歩いおいるず䜕かに出䌚いそうな気分でした。 改めお、その時の皆さんの魂に察し、安らかにず祈りたす・・・

最埌に、鹿児島垂から西ぞキロ前埌の䌊集院ずいうずころに埳重神瀟ずいう島接矩匘が関ヶ原から薩摩ぞ戻っお来た際に詣でた寺がありたす。 この寺は別名、劙円寺ず蚀い、私が高校生だった頃には匁圓持参で意味の分からない歌詞カヌドを持たされ、その歌を歌いながら、矩匘公の遺蚓を偲んで歩いおお参りする行事がありたした。 俗に、劙円時詣りず蚀えば地元では有名な故事です。 䌊集院は矩匘が育った地元なのです。 これが私ず島接矩匘公を知った最初のキッカケでした・・・ 本圓に薩摩から関ヶ原や江戞は遠い地だったず思いたす。 昔の人は本圓に偉かったず思いたす・・・

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